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今月に入ってから今日まで、我ながらよく体がもったと思う。10月1日はお台場のZEPP TOKYOで行われた野口聡一宇宙飛行士の帰国報告会に招かれ、そのなかで10分ほど公開トークを行なった。その時、話だけでは、と野口氏を椅子に座った姿勢のまま抱え上げる“浮き取り”や、長座姿勢から立ち上げる“添立”なども実演した。
野口氏が私のところに訪ねてこられた事が、一体どの程度無重力状態の体の使い方に役に立ったかは疑問だったが、サービス精神旺盛な野口飛行士は「発想の転換ということで役に立ちました」とトークの中でコメントされていた。(という事は、別に役に立ったという事もなかったのだろうが、無重力状態というもの自体を大変楽しまれたようだったので、実際、宇宙に行ってみたら困ることより楽しかったということで、それはそれで良かったのだと思う。ただ、無重力状態のなかでの筋肉や骨の衰えを防ぐ運動法は、少し参考になるものが作れるかもしれないと思った)
この日は、〆切の迫ったメールマガジンの私のインタビュー原稿の書き直しを前日の深夜までかかって何とか9千字ほど書き上げた直後だったので、体が消耗しており、同行した新潮社の足立真穂女史に「先生、大丈夫ですか」と真顔で心配されるような血の気が失せた顔色をしていたらしい。
確かに休業延長中に無理を重ねているので、私も自分の体の状態に何とも自信がなかったが、3日からは息つくヒマもなく7日まで予定がビッシリと入っているので、何とかしようと野口裕之先生に先月中旬指示を受けた内観技法で自分の内部を観る。すると、先月中旬は単に右と左の足の大きさが内観的に全く違っていただけだが(それでも右が象の足くらいに感じ、左が人間の幼児ほどだったから、その差には驚いたが)、今回はオーロラのように動き回って捉えようがない。「これはマズイ状態かも知れない」と思ったが、「戦場では自分の体調など言っていられないだろう。五体満足で動けば上等だ」と思って、山積みする諸用を処理しつつ、(といっても急ぎの用件を何件も手つかずで残してしまった)3日を迎えた。
この日は朝からずっと遠くで目がまわっている感じだが、気分転換するものを読んだりして、何とか夕方にはアシスタントというより私が気分が悪くなった時の介添え役として長男の陽紀を同行して六本木ヒルズのFM局「J−WAVE」へ行って、ここでV6の岡田准一氏とのトークに臨む。日比谷線の六本木の駅に着いた頃には何とか気分も平常に近くなり、トークが始まったらそこに集中できたので、約1時間の収録は短いくらいに感じた。ここで感心したのは、このトークに関わったスタッフの話の通りの良さ。「もしスポーツのコーチなどの関係者がこれほど話の通りが良ければ随分と楽なのだが」と思った。岡田氏も興味深げだったので、私も話していて話し甲斐があった。ただ、収録が終ると、また何とも不安定な体調が顔を覗かせてきたので、すぐに市ヶ谷の旅館にタクシーで入る。(翌日、鈴鹿に12時前に入らねばならなかったので、東京駅に行くのに便利な所に泊まって体を休めることにしたのである)
早めに寝たが、体に熱が籠っているのか暑くて寝苦しく、汗が出ると冷えそうで、何とも体温調節が難しかった。この時ほど「ああ、いま、体は風邪を引いて調整をしたがっているんだなあ」と思ったことは今までに無いほどだったが、何ヶ月も前から入念に打ち合せをし、先月の伊勢高校にまで見学に来られた鈴鹿サーキットの平井氏の苦労を無には出来ないと、私なりの内観技法で自分の体の内側と向き合って、いろいろやっているうちに眠りにつく。途中3度ほど目が覚めて、その都度内観を変え、6時半頃、何とか起きて風呂に入り、7時過ぎ、旅館を出発。
名古屋まで水と麦茶とミカンで気分を変えつつ、何とか体をダマシダマシして近鉄に乗る。鈴鹿の駅からはタクシーで鈴鹿サーキットに入り、「2005トラックセーフティ・フォーラム 交通安全を考える」というフォーラムでの基調講演を行なう。さきほども書いたが、数ヶ月前からいろいろと打ち合わせを重ねてきた平井氏をはじめ、鈴鹿サーキットランドの方々には十分な準備をして頂いたので、滞りなく講演を終えることが出来た。
その後は名古屋稽古会カラダラボの講習会の折、知り合った方の縁で、ごく内輪な介護法を中心とした講習会を鈴鹿市内の武道場で行なったが、私を鈴鹿サーキットでのフォーラムに迎えに来られ、又、ホテルまで送って下さったI氏は、初対面の方だったが、話してみると、私がいまだかつて経験した事がないほど共通の知人が何人もいて、これには驚いた。
そして翌日(つまり今日5日)は、安城市で浜口典子選手の所属する女子バスケットボールチーム「アイシンAW」に行き、初めてバスケットボールのチーム全体に対する動きの実演と解説を行なう。これには筑波から、スポーツ選手に対する武術の動きの応用に関しては最近では私以上に指導経験を積みつつある高橋佳三氏も駆けつけ、共に動きの解説を行なう。
スポーツのチームに招かれて実演と解説を行なった事は今までに何度かあるが、今回は金ヘッドコーチをはじめとするコーチの方々やオーナーであるアイシンの会社幹部の方々も少なからぬ興味と関心を示して下さった手応えがあったので、今までのように招かれても、その回1回で終わりということはないかも知れない。(今までは招かれて行って、そこで武術の動きの有効性を示し得ても、トレーニングの方法がそれまでの方法と大きく異なるため、指導陣が当惑してしまい、桐朋高校や関西学院など僅かな例外を除いて、その後も招かれることはなかったのである)
今回のアイシン行きは、いま、スポーツ関係者で最も私の動きの導入に熱心で一生懸命な浜口選手の熱意と人柄に応えたいと思ったことがキッカケだが、思った以上に先方の方々に関心を持って頂けて、私としても不安な体調を抱えて行った甲斐があった。
以上1日分/掲載日 平成17年10月9日(日)
夕方からの来客を送って近所まで出ての帰り、すでに夕闇が濃くなっているなか、月と宵の明星が久しぶりにハッキリと見えた。そんな秋の空を見上げていると、堪らなく昔が懐かしくなってきた。私が歩いていた辺りは、40年前なら田んぼや雑木林が広がっていたところで、いまの季節は稲藁を焼く匂い、柿の実の匂い、湿った落ち葉の匂いが漂っていたと思う。
先日7日、身体教育研究所の野口裕之先生に体を観て頂いた折、「甲野さんの固定していた古い記憶が動き出しているみたいですね。まだ、しばらくは体調に波があるでしょうけれど、あまり気にしなくていいですよ」と、私の体の現状を説明して頂き、少し気は楽になったものの、最近の自分自身の気難しさには我が事ながらホトホト付き合いかねる思いだ。
そうした折は、新しい刺激で気を紛らわせようとする訳でもないだろうが、このところ武術的な場での出会いがいくつもある。昨日は、大相撲の三段目の力士の訪問を受け、いろいろと相撲的状況下で手を合わせてみる。9月の末に「斬り」の働きに新しい気づきがあり、無謀にも力士と相撲のルールで当っても何とかなるような気がしていたので、10月の初め、この力士の父君から指導を頼まれたという事もあり、実際に手を合わせてみた。
結果は、さまざまな状況下で私が予想した以上に有効で、力士にも驚かれ、今後の指導も頼まれたが、夜に入って何とも云えぬ淋しさに襲われた。それは力士に対して相撲的状況下で有効だっただけに、自分の動きの未熟さがハッキリした形で出なかったことに対する何とも云えぬ虚しさがキッカケだったように思う。
まあ、力士の側にも遠慮があったろうし、まわしをしめて土俵でやれば、また違うだろうと思うが、私が試しに技を使わず、普通に体当たりしたところ、分厚いコンクリートの壁にぶつけたテニスボールのように跳ね返されたから、「斬り」など、最近の私の動きに進展があったことは確かだと思う。しかし、進展があったらあったで、もう翌日には昨日の新発見が常識となっていて、さらに、その先を欲しがる餓えた狼のような自分の貪欲さは、この日、まわしの巻き替えやさし身などの動きに働きを出すには、下半身の動きがきわめて密接に関わっていることに気づくことにつながった。これは杖術の下段抜きなどを行なう際に、手だけでやるのと足腰も使うのとでは段違いの動きとなる事と同じことだと思う。気づいてみれば当然だが、相撲などの場では、つい腰を安定させようと固定し、腕だけの差し合いになりがちなだけに、この事に今まで気づかなかったのだと思う。そうした気づきがあったりしたから、その時はいろいろとこれからの稽古法などに頭を使って、余計な事を考えないで済んだのだが、夜になると何とも堪らない気持ちになってしまったのである。
そうした思いが一晩でどのように発酵したのかはよく分からないが、なぜか夕闇のなかで秋の夜空を見上げでいると、堪らなく昔が恋しくなってきたのである。人見知りで恥かしがり屋で、それだけに驚くような武術の技にたまらない憧れを抱いていた十代の半ば、その頃の武術に憧れを持っていた自分が、なぜか無性に懐かしいのである。
これは、この餓狼のような貪欲さに辟易としている自分がいて、どこかでズバリと本質的な動き(たとえば肥田式強健術でいうところの正中心の悟得)などを求めているのかもしれない。
もっとも、そうした感覚を得れば、それはそれで、少し時間がたてば一人よがりの野狐禅的思い込みではないか、と考え込む自分がいるだろうということも予想されてしまう。
しかし、今はとにかく投げ出す訳にはいかない予定がビッシリ・・。明日は又、総合格闘技のS選手と会って、最近の技をいろいろ実演・体験してもらう予定。向き合って技を試したり、工夫している間は一切余計なことは気にならないから、今はそこに私自身の身を置くしかないのかもしれない。
以上1日分/掲載日 平成17年10月13日(木)
さすがに「もう限界を越えた」というところまで来てしまった。何しろ、タクシーに刀を忘れるという未曾有の事をしてしまったのだから(幸いすぐに戻ってきたが)。とにかくやらねばならない事があまりにも多い上、雑誌の取材が割り込んで、本当に、前はもちろん右を向いても左を向いても、後ろを向いてもやらねばならない用件が山積みしている。
最近は力士と手を合わせたり、格闘家に動きを教えたりと武術的な用事も多く、その時は、その事に没入しているだけに、我に返るとあまりの時間の無さに肌寒いものを感じる。とにかく19日から10日以上西の方を周るが、その為の荷造りと、その荷の転送方法もまるで手つかず。
昨日、PHPから新刊の『古の武術に学ぶ』の見本本が送られてきたので、この本の献本リストも出さねばならない。渡辺京二先生の名著『逝きし世の面影』も、是非差し上げたい人がいるので20冊も買い込んだのに、現在のところ野口裕之先生に持参した他、まだ2〜3冊しか献本できていない。
そこへもってきて、技に関する術理、稽古法については、洪水のようにいろいろと浮かんでくる。そして、それらはある程度言葉で印象づけることは出来るが、理論的には何とも説明しがたい微妙さがあるので、動いて確かめて自分のものにしていくしかなく、そのためには動く時間が必要だ。そこへ今月下旬刊の新刊誌の校正原稿があり、どうしても書かねばならない手紙が何通もある。
体の方はともかく、「やらなければならない」と思う事が出来ない心理的ストレスで参ってきている。これでまた雑誌等のライターの筆力が無くて、私が書き直さねばならなかったりしたら、もう本当に倒れてしまうだろう。これからは筆力のあるライターさんの取材なら歓迎だが、それ以外はお断りしたいと思う。その方法の1つとして、まずライターさんと電話で5分ほど話をして、それをどうまとめられるか読ませていただき、その上で引き受ける課かどうかを決めようと思う。その方法が非常識と言われようと何と言われようと、私が倒れてしまうかどうかの瀬戸際なので、御了解して頂くしかない。
こうなったら、いま私がやっている程度の事など「あんな事は大した事はない」と思っていらっしゃる武術・武道関係の方々に(そう思われる方々も少なくないと思うし、私自身もそう思っているので)、私に代わってどんどんスポーツ関係者を驚かせて、指導したり、楽に人を起こしたり立たせたりする介護法を普及して頂きたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成17年10月15日(土)
今日から西日本・九州方面へ出かけ、ほぼ今月中はずっと西日本・九州をぐるぐる回ることになる。いくつもの講座や稽古を、これほど1度に行なうことは初めてかも知れない。これは、阿蘇の小学校での出張授業(朝日新聞社の依頼、オーサービジッド)(21日)と、大阪産業大学四十周年記念講演(25日)、鳥取での卓球関係者に対する講座の日程が全て10月の末に入ってきたためであるが、旅行中いろいろ出会いや気づきがありそうだ。
いろいろな事といえば、昨日も大相撲の力士が2人来館。大変熱心だったので2時間がたちまち過ぎた。私も対相撲での体の使い方に気づきがいくつも見つかって興味深かった。それも最近新しく拓きつつある「斬り」の感覚があるからだが、この斬りも、相手のなかに感じる頑張りを斬ることから、私自身のなかにある詰り・滞りを斬ることへと変わりつつある。しかし、この辺りは全て感覚の世界で、何とも言葉にするのが難しい。
以上1日分/掲載日 平成17年10月20日(木)
19日は、何か電車が遅れそうな嫌な予感がしたので、かなりゆとりをみて家を出る。すると、予感どおり中央線が神田で人身事故があり、新宿から東京まで10分くらい普段より時間がかかった。それにしても最近事故が多い。17日に本の打ち合せで5時半に来館予定のPHPの編集者太田氏も事故で、到着がかなり遅れた。
しかし、こうした事故などの変事に対する予感が妙に鋭くなってきているのは、身体教育研究所の野口裕之先生にお世話になっているためのような気がする。というのも、同じく野口先生にお世話になっている畏友の名越康文氏も、やはり妙に予感が鋭くなってきていて、17日の生放送のテレビ番組でトラブルが発生するのを痛いほどに感じていたという。
名越氏は10月から毎週月曜日、日本テレビの『らじカル』に映画評論で出演中だが、その分析の鋭さは最近新しく出た『危ない恋愛』(光文社 智恵の森文庫)を読むと予想できると思う。
それにしても、最近の野口裕之先生の身体調整の技は、もはや、もう何と言っていいのか…。病気を治すのが上手とか、そういうことよりも、人間というのはかくも過去の多くの要素によって現在を、そして未来を生きようとしているのかという事を肌に粟を生じさせられるほどの迫真力をもって示されている。
野口先生に体を観ていただくと、人間、よくもまあ、これほど様々なものを背負って、よく毎日生きていられるなあと、この「ただ生きている」というその事だけでも十分に奇跡的なことなのだと思わされる。御縁のあったことに心から感謝しているが、野口先生が人の体を観られる際は、文字通り命に鉋をかけていらっしゃる観があり、有難いと同時に心苦しい思いが最近ますますつのっている。
ただ、まあ名越氏も私も野口先生にとって、ある種の珍しい研究サンプルでもあるようなので、「次は○○にいらっしゃい」という御好意の続いている間は、是非お世話になっていたいと思う。そして、その内観的世界が私の技に反映される事が、何よりもその御好意に報いることだと思う。そのためにも、現在進展中の術理として言葉にしにくい「斬り」を更に研ぎ上げてゆきたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成17年10月20日(木)
19日に家を出て6日目、旅も半分近くになったが、今回は3日目に阿蘇の小学校での出前授業の日から体調が崩れ、夜は、これから先の旅が続けられるかどうか分からないほどの状況となった。そのため、深夜であったが身体教育研究所の野口裕之先生に電話での指示を頂き、3時間ほどかけて様々な処置を行い、何とかその翌日、翌々日の(一時はとても無理と思われた)予定もこなすことができた。(といっても本調子にはかなり間があるので気が抜けないが・・)
21日の阿蘇山田小学校での授業は、子供らしい元気な生徒が多く、終っても多くの子供たちや先生方に別れを惜しんでいただき、楽しいひとときを過ごすことが出来たが、この日の朝から潜在化していた体調の悪さは、夕方、『逝きし世の面影』の著者である渡辺京二先生のお声がけの人間学研究会の集まりに招いて頂いた折に顕在化してきて、かの水俣病を描いた小説『苦海浄土』の著者、石牟礼道子女史や何人もの研究会のメンバーの方々が集まって頂いたのに、十分なお話しが出来ず申し訳なかった。(それでも、いろいろ御質問などを頂き、ある程度は喜んで頂けたように思えた)
今日までの旅で強烈に印象に残っているのは、熊本で、かの宮本武蔵が後世『五輪書』と名づけられた五巻の兵法伝書を書いた場所として知られる天然の岩屋、霊厳洞を訪ねることができた事である。ここは武蔵に由縁の地として広く知られている場所で、訪れる人も少なくないようだが、その場の力、迫力は想像していた以上に強烈で、あらためて"宮本武蔵"という人物に関心が湧いてきた。
それにしても、今回は多くの人々の世話になっている。福山では岡崎女史をリーダーとする何人もの方々、阿蘇では朝日新聞社の菊池女史、カメラマンの熊谷氏、山田小学校では森校長先生、竹原先生、人間学研究会では渡辺先生はじめ関係者の方々。熊本ではK塾頭とF氏には二泊三日にわたり、あちこち案内して頂いた上、佐世保まで車で送って頂くなど本当にお世話になってしまった。そして、佐世保では平田接骨院々長とスタッフの方々に・・・。この場を借りて厚く御礼を申し上げたい。
―-業務連絡―-
新しい企画等の御相談の際は必ず御自身の連絡先を明記して下さい。今回が初めてでない方もEメールだけでなく、電話やFAXなどの連絡先をお願いします。とにかく非常に用件が多く、先方の連絡先を手持ちの資料から探す時間がないままに連絡できなかったため、企画そのものがなくなったり、連絡が遅れることが少なくありませんので・・。特に、いま私は旅に出ておりますので連絡先のない方にはお返事のしようもありません。
以上1日分/掲載日 平成17年10月20日(木)
体調はまあまあ。まったく「生かさぬよう殺さぬよう」にと、どこか高い所からコントロールされている感じ。身体教育研究所の野口裕之先生から「しばらくは体調に波があるでしょう」というコメントをいただいていたがまさにその通りで、あまり心配はしていないが、原因もよく分からぬまま、こんなにも体調に波があるのは初めてで、見通しがつかないのには些か参る。
ただ、25日の、大阪産業大学、建学四十周年記念の講演では3時間ずっと喋りながら動き続け、その時は、それなりに動けたので幸いだった。大阪産大では四十周年の記念にさまざまな分野の方々を講師として招き、私で6人目との事だったが、今回いろいろと司会や世話をして下さったH教授が「講演を聞きに集まった学生が、1人も寝なかったのは今回が初めてです」とコメントされていた。まあ、実演、動きを伴うものは、それだけ人の興味を惹きやすいからだと思う。
驚いたのは、1時から3時まで、正規の講演時間で2時間、講演と実技を行い、3時で終って、あと興味のある人に残ってもらい、いろいろと質問を受けたり技を体験してもらおうと思ったのだが、講演終了となっても帰る人が殆どいない。といって質問も少なかったため、仕方がないので正規の時間のスタイルのまま続行。4時近くになって完全に終了となったが、そうなって全員が席を立つようになると、そのザワついた雰囲気に安心してか、体験希望者が何人も集まってきた。そういう人にために、3時で打ち切ったのだが、やはり日本人は、若い人達でも周囲との協調性に気をつかう民族だという事をあらためて感じた。
昨日は岡山で一晩ゆっくり光岡英稔師のもとで過ごさせて頂き、非常に得るところがあった。特に打剣で、切先が両刃の剣状になっている苦無型の剣(重さ160グラム)を、紙飛行機を飛ばす形の"瀧入り"で打って、かつてなく鋭く刺さった時は、見守ってもらっていた光岡師も当の私も「おお」と異口同音に声をあげて顔を見合わせたほど、いままでにない動きが出て、そのお陰で体調も崩れずに済んだように思う。
その後は「大事なことはソッとしておく」という韓氏意拳の教えに従い稽古は打ち切って、色々と深夜まで光岡師と語り合った。
以上1日分/掲載日 平成17年10月28日(金)
10月28日は特急スーパーいなば5号で、岡山から鳥取に向かう。福山から上ってきた列車が遅れたので、急いで『いなば』が出るという15番ホームに降りたところ、二輌連結の列車がちんまりと停まっている。
「いなば5号」の前に、何か普通列車が出るのかと思ったが、発車まで2分しかない。「まさか」とは思ったが念のため乗務員とおぼしき人に、「特急いなばはまだですか?」と尋ねると、「これです」という返事、満員のようなので体調を考え、グリーン車にしようかと尋ねたが、グリーン車はないとのこと。とにかく乗ったが「特急スーパーいなば」が二輌とは驚いた。
窓に広がる典型的な里山の風景をみているうち、ちょうど一年前、倉吉に招かれて行った時のことを思い出した。多分途中から同じ線路の上を走っていたと思う。
あれから一年。思えば今回熊本に行ったのも、あの倉吉のあと四国から大分に渡って稽古をしたことがキッカケだった。窓の外を見ていると、その時の風景がつい二、三日前のようにハッキリと思い浮かんできて、月日の経つことの早さにあらためて驚いた。
しかし、この一年短いといえば短かかったが、その間にずいぶん変わったと思う。『斬り』の感覚が、いまのような展開をみせようとは、まるで想像もつかなかった。
想像もつかない、といえば、このいなば5号に乗る何時間か前、電話がかかってきた。現アイシンAWの浜口典子選手も、一年前のいま頃は女子バスケットの日本代表としてアテネを最後に引退し、すっかり傷めていた足首のこともあり、まさか一年後のコートに立ってアテネの時以上に動けるとは思ってもいなかったと思う。
聞けば今回の岡山で開かれた国体で、長崎県代表として出場し、全試合30点以上を入れて、優勝したという。全日本代表の現役時代ジョモに所属し、近代的トレーニングもやりながら、私のやり方もとり入れていたのが、ジョモを辞めてアイシンに選手兼コーチとなって移り、当初は試合の半分も出られればいいと考えていたようだが、アイシンに移籍後、それまでの近代的トレーニングは全てやめ、今は練習メニューも選手と同じようにこなし、試合に出ての動きは、アテネに行った時以上に動けているという。
これは、私のやり方がよかったというだけではなく、私の会を通して知り合った整骨のエキスパートのサポートや、筑波の高橋氏のアドバイスなどの複合成果だろうが、それも、近代的トレーニングを続けていたら、こうまでハッキリとした変化は出なかったと思う。
26日に岡山へ寄った時は、韓氏意拳日本分館代表の光岡英稔師が、しきりに「体を動かす時、頭というバカ社長が、本来備わっている身体感覚という有能な部下のやることに口を出したがるので、うまくいかないのですよ」と強調されていたが、「頭」つまり思考という社長を「バカ社長」にするか「有能な社長」にするかで、さまざまな技芸の進歩はまるで違ったものになるだろう。
28日は鳥取入りし、29日は朝から夜までほぼ90パーセント卓球に関することで、さまざまに動いたりしゃべったりした。これは洲本高校の山田俊輔先生の仕切りで行われた、王会元龍谷大学卓球部監督と私とのジョイント講習会で、私がメインとなった1日目だったからだが、参加者は二百名を越えていたようだった。
卓球はスポーツ界のなかで、武術の動きを取り入れることに本格的に関心を持っている人がおそらく最も多いスポーツだと思うが、これも山田先生の人間的魅力がすべてのキッカケになっていると思う。
どんな分野でも、「結局は人間次第だ」といわれながら、現実には、マニュアル化が進む現代で、山田先生のような方が高校の教師をされていることの貴重さを今回ますます痛感させられた。
以上1日分/掲載日 平成17年10月31日(月)