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そして、いざ動き始めてみると、体重は少し戻ったものの60キロ強だが、62,3キロあった以前より体の技としての重さはなぜか重くなっている感じがして、抱き上げの潰しは利きが以前より増していた。
今日、主として使った術理は最近展開中の“石鑿(のみ)の原理”。これで持たせ技、切り込み技、突き技、剣術の技など全てに応用。昨日I女史と稽古してみつけた、フェイント的に出した手が途中から突然加速して入ってゆくもの、対捧げ持ち、対タックルなども何人かのタイプの違う人達とやっていくつか新たな発見もあった。
とにかく“石鑿の原理”は相手と接する手は全く敵意なく、タオル掛けにタオルを掛けるようにただふわっと出すだけだから、相手もついそれに感応して激しく対抗してこないから、振り払おうとする手首に手をかけてそこから一気に崩すなどという技が今までになく有効。
こんな体の使い方をなぜ今まで気づかなかったかと思うが、いくつかの段階(たとえば最近まで主役的に使ってきたブレーキ、つまり動きにロックをかける働き)がまずあって、そこからここへと順を追わねば進めなかったように思う。すべて時期というものなのだろう。
しかし、一人になって電車に乗り座席が空いていたので座ってこれを書き出したらドッと疲れが出てきた。ただ気持ちの悪い疲れではないので、これでよく寝られるだろう。ここで高須賀茂文氏をはじめ今回の会の開催に力となって下さった方々にあらためて感謝の意を表したい。
明治25年2月丹波の片田舎でクズ拾いをしていた老婆のこの突然の異変は、武の世界では合気道を生み、やがて国を揺るがすような大本事件への第一歩となったのである。そしてその後、無数の新宗教や能力開発団体に影響を与え、結果として現在の日本人の5人に1人は有形無形の影響を受けているといわれるほどの存在となったのである。
もちろん私がそのような存在の核となることは全くあり得ない。なぜならもしも私の体の使い方の影響で巨人軍の桑田投手や桐朋高校のバスケットボール部以外にも目覚しい成果を挙げた人や団体が出たとしても、それはその人物や団体の努力や才能の開花であり、そのキッカケとなった私の術理というのは常に今までの常識をひっくり返し続ける捉えどころのないもので、これといった定義や型にはめこむ事が出来ないからである。現についこの間まで盛んに言っていた“ロックをかけて威力を生み出す”という理論が、“石鑿(のみ)の原理”へと発展的に解消しつつある。
つまり私の技や術理は各人が身体を使って内証自覚するものであり、それだけにいわゆる信仰的に取り扱うことが難しいものだからである。その代わり、全く違うところで同じような気づきを得ていた人とは話の通りがいいようである。現に私が先月出した岩波アクティブ新書の本を読み、「自分が長年テニスで考えていた膝の力を抜くことによる重心移動が、テニス界では最速と信じられていた「スプリットステップ」より有効であるというテニス界では異端な考え(現実にやってもその方が有効なので、「指導者泣かせです」とも書き添えてあった)とほぼ同じだったので安心しました」という意味のお便りを、ある高校のテニス部の顧問の先生より頂いた。(余談であるが、この岩波アクティブ新書『古武術に学ぶ身体操法』は、岩波書店があまり1度に多く増刷しないので、なかなか中型書店までは行き渡らないらしい。御関心のある方は大型書店か岩波書店に直接お問い合わせ頂きたい)
したがって、こうした同じような気づきを得た方とは会って話せば有益な意見交換も出来ると思う。しかし、だからといって一緒に新しい研究団体を立ち上げようというような流れにはまずならないと思う。なぜなら意見は全て一致するとは限らないし(もし何もかも一致したら気持ち悪い)、別々のところで独自にやっていった方が思いがけぬ発見もより多く得られると思うからである。
再々言っている事だが、私は人に縛られるのも嫌だが人を縛るのも嫌である。組織化すると、必ずしも意見が一致していなくても同調しなければならない事が必ず出てくる。それは元来共同体意識の強い日本人の長所でもあるのだが、明らかに欠点でもある。現に私自身けっこう過激な事を言っていたも、直に人に会えばなるたけその人と対立はしたくないという典型的な和を重んじる(?)和風の人間なだけに(この辺りは神戸女学院の内田樹先生と共通しているかもしれない)、なるべく心ならずも同調する機会をつくらないようにするため組織化は極力避けているからである。
それにしても、別に〆切が迫ってもいないこの随感録をよく書くなあと我ながら呆れる。しかし、〆切の迫った原稿をいくつも抱えながら、まるで出口なおの筆先のようにペンが走って止まらないのだから致し方ない。
まあこの様子からいって、私の体調も本復宣言と出したいところだが、本復宣言はまだお預けとさせて戴きたい。なにしろ、この何かにとり憑かれたように思考が展開したり、こうしたことを書かずにはいられないという別の病にかかりはじめてもいる事であるから。しかし、極力この随感録は控え、PHPの多田女史との本の図版書きと「あとがき」、そして『武術を語る』文庫化への校正とまえがき等目前に〆切の迫った仕事に取り組もうと思っている。
そういえば、左の人さし指の切り傷は、2日の夜からもう風呂につけても水仕事をしても何ともなくなった。押しても全く痛まない。ただ傷口の表面はわずかに空いているので、何かにヒッカケる怖れがあり、一応小さくテープは巻いている。
本当はここに漆を入れれば一晩で固まり、もう全く何の不自由もなくなるのだが、かつて2度妻を漆にカブレさせて二目と見れぬというか、妻には悪いが顔を見た途端に吹き出してしまうような面相にさせてしまったので、万一を思い控えることにしたが、ほどなく漆の代わりのテープも必要なくなるだろう。
そして明けた今日は新潮社の雑誌『考える人』の写真撮影。たまたま今日初来館のT氏や剣道三段のO女史にも受けを務めてもらう。しかし、何だか他にも今日1日で雑誌、単行本、テレビ等々5つほど仕事の依頼が来る。なかでもテレビは確かに良い番組だが、それに関わる時間が数日は潰れる事と放送後の反響を思うと思わず尻込みしてしまう。
考え込んでいるうち、それよりも明日の午後までにPHPの多田女史との本の図版書きと8日からの東北行きの荷物発送の用があったと思いを切り換えて、図を書き始めたところへ中国へ行っている筈の岡山の光岡英稔氏から電話。どうやら光岡氏の武術人生の中でも最大の出会いが彼の地であったらしい。その為、再度中国へ渡るべく予定を早めて帰ってきたとの事。電話を聞いているうちに光岡氏の感激の深さが私にまで直に伝わってきて胸が熱くなった。その武術にかける才能と情熱は私が出会った人物の中でも他にちょっと思い当たらないほどの好漢が、また零に自分をリセットして学んでいきたいと語るほどだから余程のことであろう。
しかし光岡氏の話を聞いていて、あっという間に深夜の2時間がなくなってしまった。どうやら私の心身を使っている何者かはまた再び私を「生かさぬよう殺さぬよう」という修行の場へ私を連れ戻そうとしているようだ。これから明日PHPの大久保氏に渡す図版を朝までかかって書き、しかも明日3時頃家を出るまでに東北行きの荷物をつくって、夕方からは都内での稽古会。今回も新しい人の申し込み状況を中島氏から聞くと、稽古場からあふれ出しそうなほど人が来そうな気配。
とにかく明日はいろいろ考えず一気に予定をこなしてゆこう。
しかし技に関しては、ちょっとやり難い人がいると以前よりもすぐ対応法を思いつくようになってきた。例えば小手返に関しては、頑張り方のタイプにもよるが、野球の牽制球にも応用した逆手抜飛刀打の尻もちつきの動きを使うことを思いつき、これがけっこう有効。しかし下手をすると掛ける自分が後頭部から落ちそうな恐さを感じるので、一瞬足許が払われても瞬時に体勢をたて直せるだけの体幹部の動きの速さを養う事は、この上のレベルを目指す上で不可欠のように思う。それにしてもこの技は、昨日光岡氏の熱い話を聞いていた事が何らか作用しているような気がしてならない。
動きの方の体調も気分もいいが、胃が何日か前から重いので、ここ2日ほど食料を減らしたらその調子も良く、更に身が軽くなってきた。
今月の初めの頃は足許がフラつくからと穀類を主として食量を増やしたのだが、それが食べすぎだったらしい。どうやらこの間の変動で体が変わってきたようだ。相変わらず動物性のものは殆ど摂らず、植物性の蛋白の納豆、豆腐も大して摂っているわけではない。特に今日は今のところ半合ほどの穀類(玄米、丸麦、キビ、アワ等)と野菜は人参、そして三ツ葉、セリ、小松菜、ニラ等の葉菜を大皿1杯ほどを2時頃食べただけで、約4時間ずっと動き通ししゃべり通しで殆ど疲れを感じない。
ただ、この体調の良さに対する課税であるかのように、山手線の網棚に忘れ物をし、1時間2分かけて一廻りする山手線を恵比寿駅まで戻って待ちうけてこれを回収するというおまけがついたので、帰宅が1時をまわり寝るのはまた3時過ぎになりそうである。なにしろこれを書いているので・・。
しかし妙なもので、この忘れ物でずっと気になっていた予感がフッと楽になった。その「気になっていた事」とは、先日来館されたシドニーオリンピックのピストルの金メダリスト、フランク・ドゥモラン氏が私の道場に忘れていった腕時計を、今月9日に山形に行った折届けることにしているのだが、何だかそれを失くしそうな忘れそうな予感がしていて困っていた事である。(フランク氏が私の技を体験するため時計を外された時、妙に私のところにこれを忘れていかれそうな気がしてならず十分注意していたのだが、やはり忘れていかれたので、それと似た予感が気になってならなかったのである)それが私自身忘れ物をし、1時間使って自主回収するという税金を払ったので、何かそれで身代わりになったような不思議な静まり方をしたのである。
しかし不思議なもので私の忘れた風呂敷包みの中身は稽古袴と足袋、ナイロンのポンチョ風の合羽といったもので貴重品ではないのだが、このナイロンの合羽が今まで何度も忘れたり落としたり紛れたりしたものの必ず見つかるという縁のある物で、忘れた時も「ああ、きっと見つかるだろう」という不思議な安心感はあった。(この合羽は実に簡便なものなのだが大変便利なので、もう1枚手に入れようとあちこち探したのだがいまだ手に入らない、私にとってはなかなか価値のあるものなのである)
これに関連して思い出したのは、私が明治以後の武の道の先達として最も尊敬している弓道無影心月流の開祖梅路見鸞老師のエピソードの1つである。梅路老師は大変な忘れん坊で、以前この随感録でも紹介したように、「一度家を出たが最後忘れることを忘れた無事な日がない」というほどでありながら、八十何歳かになる播州傘の家元のお婆さんが細骨の張り納めにと作って老師に贈られたという番傘だけは10回に1回ぐらいしか忘れられず、忘れても必ず戻ってきて、老師の許に来て4年経って黒くなって2,3ヶ所破れていても老師は愛用されていたそうである。それで門人が不思議に思ってその理由を尋ねると(何しろ他の傘だと傘をさして出て、出先で雨があがったら最後持って帰られたことなど1度もないというくらいだったそうなので)、「傘に魂があるのだろう。忘れても直ぐ思い出すよ。不思議だね。」と答えられたとの事。物と人を巡る物語は、人と人との物語と同じように不思議な話を紡ぐようである。
そういえば昨日木彫彩色工芸作家の渡部誠一師から、私がわずかに折れた葉の縁の修理を(というより全く新たな雰囲気に作り換えていただくよう)お願いした例の木ノ葉が送られてきて、あらためてそのセンスに感嘆した。物に命を吹き込むというのは、こういう方の作品を言うのであろう。
これほどの方が、バブル崩壊後「見た目だけでいい。手は抜けるだけ抜いてくれ」というような依頼を受けていたという話は、過去の事とは言え詳しく聞くのはあまりに辛く胸が痛む。この方を四国の守氏、葉山のO氏、そして整体協会の野口裕之先生といった目もあり人脈もある方々に御紹介できたことは、私としても自分の人生の思い出の中で心から喜べる事の1つになると思う。
付記:そういえば9日に山形である私の講座は満員との事であったが、多少は増員も可とのこと。どうしてもという方は当ホームページとリンクしている“まるみつ”の小関氏にお問い合わせ下さい。
今回の旅は、体の変動後初めてのもので、その事が最初はだいぶ気になっていたが、いくつもの出会いがあり、後半体調そのものが大変いいとは言えなかったが大過なく過すことができた。これも仙台や山形県の高畠で多くの方々にいろいろ気を使っていただいたお蔭と深く感謝している。
今回の旅で印象に残ったのは、高畠の講座で手強い受講者の方と出会い、私自身の中の居付きの問題点に気づく事が出来たことと、初めて実際に試させていただいたデジタルシューティングのピストルの難しさである。
まず私が講座で出会った手強い方というのは、私にとっても実際に貴重な事を教えて頂いた武の先達で恩人でもある新体道の青木宏之先生に学ばれたという方で、動きが普通の人とは全く違い、それだけに私の方が居つかされて崩されてしまった。こうした際、私は以前から自分の及ばぬ点、問題点をシッカリと記憶するため再度、再々度その動きを体験させて戴き、深くその印象を私の感覚に沁み込まさせるようにしているため、今回もつい講座である事を忘れて自分の稽古に没入しかけた。お蔭で石鑿の原理で自分の体幹部をぶつける時、宙に浮かずにいた自分に気づき、講座の後ちょっとその辺を修正しただけでも体の当たりが今までになく強くなり、仙台から手伝いに来てくれたS氏が驚いていた。
それにしても体が普通ではなく使える人物はまだまだ各地に存在していることだろう。私など自分の動きの未熟さを日々実感しているから、手強い人に出会っても「ああ、やっぱりこういう人もいるなあ」という事で、大いに勉強させてもらうことにしているが、これが、「自分くらい体が使える者は他に滅多にいない」と思い込んでいたらショックは大きいだろうなと思う。
まあ私にしても、その後すぐに自分の居つきの問題点に気づいたのだから強い印象はあったのだと思う。しかし、恰好がつこうがつくまいが手強い人と出会ったら、その印象を傷口に塩を揉み込むようにして深く印象づける事。これは、私が自分が自分に課している最重要事項の一つで、これを誤魔化して自分の都合のいいように合理化したら、もはや進歩の意志を放棄した時だと考えている。
しかし、「居ついてはいけない。そのために仕事は宙でするのです」などと人に説いておきながら、自分自身その事が成し得ていない事に気づかされるというのは、口惜しくもあるが感動的でもある。お蔭で打剣の技術も大きく変わり、一時はなかなか剣が的に立たなくなった。そしてあれやこれやと試行錯誤しているうち、剣を飛ばす力は体幹部から出す事、従って剣を手之内に収めている手はあたかも犬か猫の頭を撫でているように柔らかく扱い、それ以上に手に力が入ると剣の飛びが乱れることが分かった。
又、この高畠のデジタルスポーツ射撃連盟のレンジで遠間を十分に打たせて戴いて、現在の私がいわゆる“うねり系”の投げ的な体の使い方を使う事なく剣を飛ばせる限界が六間半(約12メートル)くらいであることを確認した。うねり系を用いれば十間以上は通した事があるから、やはりうねりによるエネルギーの増大法は、普通の体の使い方ではものを飛ばす時に最も有効といえる。これとせめて同等なほどに“打つ”という体から出る動きを育てたいものである。
さて、この体の動きという事で全く違う角度から今回大きな宿題をもらったのは、射撃における体と手と意識と呼吸といった問題である。射撃とは的に向かってピタリと手が止まり、引金を引く際ブレをなくすという事を精密に行なうことだが、このことの困難さは実際に試みて思い知らされた。なにしろ最初は10メートル先の直径15,5センチの的に全く当たらないのだ。中心の10点は、線上のかぶりも入れれば直系1,45センチ。そこに照星を照門に入れてブレずに引金を引ければ10点だが、手を伸ばして慣れぬ重さのピストルを持つと、引金を引くまで保つことも一苦労。実際にやってみて、この射撃センターの事務局長をされている足立郁子女史の技倆にあらためて感じ入った。なにしろ全くの素人から数ヶ月である大会で優勝したそうだ。一点にも当たらぬ私の横で10点、9点などの高得点を平然と出している。
射撃のような世界で絵になる人が実際の技術も優秀ということぐらい、まさに絵になる情景は滅多にないだろう。しかも事務全般から、料理のアシスタント(料理はまた栗田女史という実に有能なスタッフがおられ、選りすぐった食材は菊地氏をはじめとする方々が提供されている)、掃除と実によく体を動かして働かれている。適材適所という言葉があるが藤井監督もよくぞこんな逸材をみつけ出してこられたものだと、その眼力にあらためて敬服させられたが先日私の道場にまで来てもらったフランスのフランク・ドゥモラン選手は、バランスボードに乗ったまま10点を連発したそうだ。(実際その情景を撮影したビデオを観たが、実に淡々とした態度であった)「これは考えねば」と、そのデジタル射撃のピストルを藤井監督から一挺借り、高畠のK氏宅に泊めて戴いた折も、これを手にしばしば工夫した。そのお蔭もあったのか、今日11日は的から外れることも減り、9点8点にもしばしば当たったが、何だか慣れによる辻褄合わせで当たるようになった気がしてならない。このまま経験を積んでそこそこ当たるようになったら、重要な規矩が見つからぬまま「まあデジタル射撃もやったことがあります」という程度になってしまうだろう。
考え込んでいる私の様子を察してか藤井優監督がNECの担当の方に話して下さり、思いがけず一挺のデジタルピストルを持って帰ることとなった。こうなったからには何か藤井監督はじめ多くの方々の御好意に報いるためにも、そしてそれ以上に私自身の動きの質を上げるためにも、この身体を働かせより身体機能を使いこなす事によって動きを止めるという事の工夫をしてゆきたいと思う。
それにしても今回仙台でも高畠でも今までになく熱心な表情のスポーツ関係者(なかにはその種目で日本を代表するような選手)に会い、非常に具体的な質問をいただいた。その場その場で私なりの答えをしたが、なかにはかなり関心を持たれた方もあったように思う。今後こうした傾向は講座を重ねるごとに増えそうな気配であるが、私にお答え出来ることはあくまでも未熟な私の私見であり、私自身そうした質問をいただいて、自分のなかを刺激し研究工夫している一学究の徒である事をいま一度申し上げ、まだまだすぐれた技も術理もある事をここであらためて念を入れて申し上げておきたい。したがって私などに構わずドンドン研究を進められ、益々人間の身と心の深みへと分け入られる方が増えることを願っている。なぜならば、恐らくそうなったら私もやはりその刺激で、私の中に切実感と真剣味が生まれ、そうなれば私にとっての生涯の課題である“人間にとっての自然とは”というテーマへの具体的取り組み法もみえて来るような気がするからである。
東北への旅もこなし、何とか日常へと復帰しだしてきたのでもうこれで十分かと思ったが、熱が出た時、その熱が下がって平熱以下になった時から平熱に戻るまでを十分に休ませるように体の変動の経過の仕上がりに念を入れる整体協会らしいこの御指示を頂いて、あらためて直接体を観て頂いて約1ヶ月の間、時折内観して私の身体の状況を考えて下さったのだと、その配慮の深さに深く頭が下がった。
三宅氏は大変話の面白い方で、ついつい20分ほども話が続き、「あー、半日ほどゆっくりかけて甲野さんと話がしたいですねー」とおっしゃって下さったので、「それじゃ対談という形で仕事にしましょうか」とうっかり応じてしまい、又々本の企画をひとつ増やしてしまった。
その後、読売新聞の中で、桑田氏が昨日の広島での試合で「9安打3失点、コントロールのいい桑田にしては珍しくボールが高目に・・・」との記事をみかけたので、クスリと笑いがこみ上げ、「まあ彼もその理由は分かっているだろうが・・」と思ったが念のため電話をして話をする。すると実に明るい声で「いやあ打たれたといっても長打はなかったし、バット3本折りましたから・・」と全く気にかけていない様子。新たな動きへの取り組みの副作用ということも楽しんでいる様子にこちらの心も明るくなった。
あともう1つ心が明るくなったのは、ある読者からの御手紙が版元のPHP研究所を介して届いたのだが、開けてみると、「ナンバの歩行の実践で変形性膝関節症の再発防止に効果があって驚きました」との体験談と感謝の言葉が認められていた。
いつも言っていることだが、私の術理、私の提唱する身体運用法は私も常に試行錯誤を繰り返しているので、効果があったとすれば実践された方が主役である。ただ、今も言ったように私のところは常に試行錯誤を行なっているから、私のところに縁が出来ても何色に染まるという事が少ないので、その後傑出した武術や技芸の師を見つけられ、そちらへと進まれる場合その進展を阻害するような要素は少ないと思う。こんなことを言う武術の指導者も滅多にいないと思うが(自分のところが最高だという人や、とにかく他との兼修、浮気は否定というところが多いし、それはそれで一理も二理もあるので)、何しろ私自身自分の未熟さを痛いほど感じているので、こう言うしかないのである。
ただ、それでもと言うべきか、それだからこそと言うべきか、昨日は池袋、今日は私の道場でラグビーやら野球、アイスホッケーといったスポーツ関係者の方々といろいろ手を合わせたが、又さまざまな気づきがあった。そのなかのいくつかを挙げると、例えばバッティングに槍術の対下段の払いを応用して動くこととか、ラグビーの対ハンドオフに切込入身を使うなどというものや、野球のフィールディングに膝行的動き、道具を持つのは順手という固定観念を外し逆手に使うと思わぬ利点がみえてくる等々といったアイディアが次々とあふれ出してきて、今日など気づくと稽古に6時間以上使っていた。
山積みする原稿や校正や問い合わせといった依頼の山・・。さてどうしたらいいだろう・・。
「あんな触れただけで相手を凄まじく吹っ飛ばして、『これは功を積んだんじゃない。本来の在り方に目覚めただけだ』と言われても、えーっ、それはないでしょうって普通言いたくなりますよね。でもまあK先生のなかではそうなんでしょうねえ」という話を聞いていると、又々3,4時間はすぐ経ってしまう。本来具有の能力、体幹部の動かし方、動きと感情、実際の感情の変化に体がどう連なり働くか、という事などを考えていると、更に1〜2時間はすぐに経ってしまった。
17日は青山でずっと『サンデー毎日』に連載されていた『花の詩』が1冊にまとまった刊行記念パーティーがあり、私の萼紫陽花(がくあじさい)の花に「梅雨の頃・・・」という一文を寄せたものも載ったので、お招きを受けて出席した。エッセイを寄せた方々のほとんどは雑誌やテレビで広く名を知られた各界の方々。この本の花の写真をすべて撮られた大出一博氏の紹介で何人かの方々とお話ししたが、なかでも俳優の宇津井健氏は乗馬に詳しく、又ご自身もナイフ造りをされ、俳優にならなかったら刀鍛冶になりたかったといわれるだけに、思わず話していて2人だけの世界に入ってしまった。他に約1年前トークショーの為お会いした阿木耀子女史、大出氏が運営されている文化塾の名誉会長でNTTの顧問の吉國一郎氏などといった方々ともしばらくお話しさせて頂いた。
その後、夕方は注文品の支払いもあったのだが、とにかく刃物や道具を見たくて、行きたい行きたいと思いつつここ数ヶ月行けなかった岡安鋼材へ。御徒町駅近くの岡安鋼材へ着くと、私の顔をみた岡安社長が、「甲野さん、今日これから時間ないですか?いや是非お連れしたい所があるので・・・」と、もう1年以上前から話のあった銀座の某ショットバーへのお誘い。途中、石の彫刻やら食事に寄って、ほんとうに小さな客が10人も入ったら一杯という「N」へ着いたのは9時近く。
特別高級とか凝った内装があるという訳でもないのに、知る人ぞ知る所らしく、なるほど来る人はみな馴染みの人か馴染みの人に連れられて来た人ばかり。お蔭でこの日1日で思わぬ人20人近くと知り合い、私の手書きの名刺も残り1枚となってしまった。
これでまた人脈がいろいろ拡がったと思って、フト見上げた電車の車内吊り広告にデカデカと新しく連載が始まる漫画について告知している、あるコミック誌の広告が目に飛び込んでくる。異色の鬼才と謳われるY氏の作品だが、この原作に私の畏友が深く関わっている事はずっと以前から聞き、つい先日も電話で「いよいよ3月17日発売だそうです」と、かの畏友から聞いたばかりだったので、たまたま開いていた露店でこのコミック誌を買って帰る。そして家に帰った直後、この畏友からの電話。コミック作品としては珍しく、読者が読みながら何度か始めから読み返す作品になるかも知れないというのが、我々の共通した感想だった。
18日は4月刊行予定の本1冊分のゲラが来るが、これが決定的な手違いがあって、またまた手がかかりそう。それから速達でも来るのに、FAXでもと念を入れる意味もあってかS社から4月上旬刊行の雑誌の記事がFAXで入る。インクリボンのFAXは細かい字はつぶれて読めないし、インクリボンを替えるのも手間なので、私としてはFAXは極力減らして欲しいのだが、私が忙しいと思ってかFAXで連絡を入れる人が多く、このところインクリボンの消費量が多い。必要の度の低いFAXは極力減らしていただくようこの際お願いしておきたい。
また、この日は久しぶりに桑田氏が稽古に来る。明るい表情で近況をいろいろ語ってくれた。私の方は最近考えている体幹部の使い方をいろいろと話しながら実演したのだが、対する桑田氏の体の反応力が明らかに以前より格段に良くなっており、また私の“たとえ”を多用した話によく付いて来てくれるので私にとっても大変楽しい一時が過せた。桑田氏にはこの日初めて槍の突き方、払い方を教えたのだが、もう見ている間にというか、ものの30回も試みているうちに、その槍の払い方がドンドンさまになってきて、これには私も本当に驚いた。全くお世辞抜きで、今まで槍など持った事もない人に教えてあれほど短い時間のうちに動きを理解し、それなりに体が使えた人物を見たことがない。
今までも桑田氏は身体能力がすぐれているとは思ったが、体術の技の利きなどは桑田氏以上の者は数多くいるから、それほど驚くこともなかったが、今回槍の扱いの身につき方の早さには本当に驚いた。
そして桑田氏に槍を教えているうち、体幹部をどう動かすかという事について私も新たな手がかりを得た思いだった。とにかく人間における体幹部の働かせ方というのが、単に魚やイルカの泳ぎのようなものではない事だけは確かなようだ。
昨日の技法上の気づきは、稽古している時よりもその後ある人とレストランで話をしている時にあった。それは剣術の左右の切り返し的な動きで太刀を動かすのは手や腕ではなく体幹部だ、という事であり、そのため「手首動かすこと」「脇腹捻ること」という、『願立剣術物語』で説くところの「やってはいけない“病気の身”」は、まさにその通りであり、とすると現代剣道の教えなどはまさに「病気の身」そのものとなってしまう。そうであるからこそ、「竹刀は軽いから早く振れるが真剣はそうはいかない」などという考え方が生まれてくるわけも分かってくる。しかし、私が以前から言っているように、ピンポン玉は爪先で弾けばゴルフボールより飛ぶが、バットで打つなどすればゴルフボールの方が遥かに早いスピードで遠くへ飛ぶように、その太刀にどういう質の力がかかるかによって真剣の動きは全く違ってくる。
体幹部を使うのだ、という観点であらためて『願立剣術物語』を読むと、なるほど、なるほどという処がまた浮び上がってくる。例えば11段目の
「身の備え太刀構は器物に水を入れて敬って持つ心地也。みだりに太刀を上げ下げ身をゆがめ、角を皆敵討つ・・」
などは、手足を利かせてつい動かそうというのを厳しく誡めている。
こんなふうに技の気づきにのめり込んでいると、当然その事に多大な時間を使ってしまうから、日々流入してくる依頼ごとは遅れに遅れる。なにしろこの頃あまり体調も良くない。しかし、私にとって日々何より優先すべきは身体を通しての武術稽古研究であるから、その事をあらためて肝に銘じておきたいと思う。その上で極力やるべき事はやるつもりだが、フト我に返ればここ1週間ぐらいのうちに、今日初校ゲラの来た多田女史との共著200ページ以上のもの、このゲラを読んで赤入れする事、P社のゲラ1冊分の赤入れ(これはとても1週間では終わらないだろう)、『武術を語る』文庫化のための1冊分の校正とまえがき、あとがき、内田樹先生の著作の序文書き(そのため1冊分のゲラは当然読まねばならない。ただ、これは私としては大変楽しい作業ではあるが・・)、これらを明日から殆ど毎日のようにある稽古、来客、講座と併行してやらなければならない上、数々の依頼への対応も同時にこなしてゆかねばならないから、また体調を崩しそうだ。そうならないように、これからの依頼は当分の間は断固として断ろうと思っている。
昨夜から殆ど徹夜なので今日は夕方ちょっと仮眠しよう。
業務連絡
1.4月18日の神戸のH氏からの件は了解しました。郵便では遅いので1度私へお電話下さい。(そちらの電話番号が分からないので、こちらからご連絡できません。)
2.6月4日午後2時に私と約束された方、御連絡下さい。日時のみのメモが残っているのですが、それがどういう用件か全く分からなくなっておりますので・・・。
太刀奪りの工夫は私にとって公案的な課題だが、体幹部を使っての横への移動にいわゆる三角歩を使う事から、これが背面に足をとばす“裏三角”ともいえる歩法を工夫。又、“石鑿の原理”の有効性も確認出来た。石鑿による小手返は少し前から気づいてしばしば試みているが、最近は以前より又働きが出て、人によっては拳を握り手首を固めて、十分防護体制をとっていてもらってもその手首を壊しそうな状況になることがある。
以前、恵比寿稽古会の常連であるO氏に「もう先生、気をつけて下さいよ!そのうち誰かの関節外すか腱を断裂させたりしますから・・・」と説教された事を思い出し、「いや、本当に気をつけなければ」と思った。
しかし、小手返は人によってはとても同じ人間とは思えないほど頑強な抵抗力を持つ人もいるので、その辺の加減が難しい。プロの格闘家は皆強いかというとそうでもなくて、一見ほっそりしていながらえらく対応力のある人もいるので全く研究課題には事欠かない。
そして午後の稽古の後は、大阪の名越氏が野口裕之先生の操法を受ける日なので、世田谷の整体協会のなかにある身体教育研究所へ。二子玉川の駅で名越、岩渕両氏に加え、久しぶりにお会いする植島啓司先生と合流する。いつもより1時間以上早く着いたのだが、帰りは結局午前0時をまわっていた。この間、話は様々に飛びまわったが、野口裕之先生が強調されていた“反復”という概念そのものの問題提起は私としても共感するものが強くあった。
この夜お疲れでもあったろうが、植島先生に名越氏、岩渕氏を迎えての野口先生は楽しそうで、名越氏の操法が始まるまで3時間以上は話が止まらなかった。
それにしても野口先生の操法は不思議だ。この日名越氏は頭の中の掃除をされたらしいが、野口先生の手が足と腰辺りに触れているだけで、頭の中、特に頬骨の辺りから針のような霜柱が立つほどの痛みで、しかもまるで自分が幼子に戻ったような、声をあげて泣きじゃくりたいような感情を伴った痛みであったという。「もう本当に今思い出しても泣きたくなりますワ」と表情とジェスチャーたっぷりに感想を語る名越氏に一同大笑いとなった。
私の左足内脛を焼き塩で温める事は、「もう結構です」との事だったが、これを始めてからどうも体調が悪く、先週の土曜日など終日頭痛がしていた旨をお話ししたところ、「そうでしょうね。でもそれ通っておかないとね。」と、まるで悪戯っ子のような笑いと共に浮んだ自信に満ちた表情がひどく印象深かった。
又、最近気づいたことは膝の抜きは少なければ少ないほどより威力が出るということ。これは体の内側が瞬時にまとまらなければならないという事でもある。きわめて難しいが、実現へ向け一段と稽古法を工夫しなければならないだろう。
それにしても、こうした研究を山積みする諸用の合間を縫うようにしてやらなければならないのは少々辛い。一昨日は朝日カルチャーセンターでの講座があったのだが、この日は今年度第1期の最終日だった。そのため外すことは出来ない日だったのだが、4つの異なった雑誌や出版社の方々がつめかけ、その上、朝日カルチャーセンターの講座に出席された方から27日の桐朋の金田監督とのトークの講座も満員、次期の朝日カルチャーの講座も満員なのでどうしたらいいでしょうかという質問まであって、それぞれへの対応に思考と記憶が混線状態になりそうだった。講座や私の稽古に出たいという方には、取り敢えず4月6日の千代田区立総合体育館での千代田武術研究会を紹介する。
その後、この会の責任者である高須賀氏に聞いたところ、今のところまだ十分に余裕があるとの事だったので、もし私の動きに御関心のある方は、この会をお勧めしたい。(もっとも、それは25日現在のことで、その後どうなるかは分からないが、ここ数日のうちならまだ受け付け可能だと思う。)
それから、既に告知板で紹介したが、コウモリの会の機関誌『コウモリ通信』16号に、私が「コウモリと古武術」と題したものを寄稿したので御関心のある方は、コウモリの会あるいは池袋コミュニティカレッジ等の私の講座でご購入いただきたい。この雑誌は表紙から裏表紙に至るまでの全24ページ全てコウモリに関係のあることしか載っていないという世にも珍しいコウモリ尽くしの雑誌。持っているだけで何か非常に珍しい骨董品を入手したような気持ちになるから不思議である。
なにしろこの26日の午前中『武術を語る』の初校校正ゲラを受け取りに徳間書店の永田氏が来館。永田氏にゲラや写真を渡した直後から、昨日27日に朝日カルチャーセンターで行った桐朋高校バスケットボール部の金田伸夫監督との対談の前に、新宿でPHPの大久保氏に手渡す事になっていた多田容子女史との共著『武術の創造力』の再校ゲラを読み始めたからである。しかし、いろいろな打合わせや依頼の電話が頻々と入った上、稽古に来る人までいて、午(ひる)過ぎから深夜までが一続き。あまり集中しなくても済む電話は電話しながら片付けをしたりしていたから、とうとう26日中にはPHPのゲラは読みきれず27日朝から読むことにしたが、4時間ほど寝て目が覚めても体が重い。せめてもう少し寝ようかと思ったが、諸用が気になって寝ていられない。そこへ大久保氏から電話。打合わせる事が多いので新宿で会う時間を30分繰り上げたいとの事。さあ大変!なにしろその前に本の企画で豊田市の栢野氏が来館する予定となっていたから、何をどうしたのかその数時間を覚えていないほど忙しかった。
今も言ったようにその数時間のことはよく覚えていないが、この間又新しい企画の相談やら今日の講座の事やら、17日の神戸女学院での講演の問い合わせやらがあったような気がする。なんとなく新しい企画の依頼は女性誌であった事と幕内秀夫氏のルートだったことを覚えている程度。とにかく資料を郵送してもらうことにして電話をきる。こんな状態だから、気の毒にも栢野氏は諸用をこなしている私の後姿に向かって話している時間が大分あったと思う。誠に申し訳ない。
とにかく右手と左手で違う用事をしているような状況で、6月のある企画のパンフレットへ使う写真を至急送って欲しいという依頼で、引き出しから切手の入ったプラスチックケースを、ケースごと抜きとって速達分の切手を貼り、大急ぎで昼食を摂って着換えをし、「そうだ、“ぞうり”を持って行かなくては」「ああ、チラシ忘れた」と部屋を飛び回っているうち、あまり慌てていたので切手の入ったプラスチックケースの引き出しの中身を思わず踏み壊してしまった。「ウワーッ、何てことだ」という思いが、「何てこ・・」ぐらいまで行った時、すぐに「ああ、これで税金払ったから、まあ今日の講座も大過なくゆけるだろう」との思いが湧き、ふっと一安心。そしてその後片付けもそのままに、まるで空巣に入られたような状況のまま家を飛び出す。
新宿に着いて西口の瀧沢に行ってみると、入口に大久保氏の佇む姿。近寄ってみると、何と瀧沢はビルの改装で店が閉まっている。ここに後々来る約束の晶文社の人もいるので、シャッター前の机に置かれた伝言票に京王プラザホテルの「樹林」に居る旨を記して大久保氏と樹林へ。大久保氏との打合わせは殆ど問題なくスムーズに終わる。この後の制作が予定通りなら4月下旬には、この『武術の創造力』は店頭に並ぶだろう。私としては多田女史という話しやすい聞き手を得て、以前から1度はやりたいと思っていた刀に関する四方山話やら技の事が話せて精神衛生上は大変良かった。(ただ話がつい拡がり、当初この本に盛り込む予定の話題が多く残り、その事が気にはかかるが・・)
打合わせが終わったところへ桐朋の金田監督やら長谷川コーチらも見え、一同で住友ビルの朝日カルチャーセンターへ。会場へ着くと、先月末読売新聞の西部版で桑田氏の事と私の事を記事に書かかれた小川氏や晶文社の安藤氏、足立女史らも見えていて御挨拶する。
講座は100人を越えたと思われる沢山の人々で埋まっており、予想はしていたがその雰囲気に少々驚いた。講座の進行については特に何も考えていなかったので、何人かの方々の御質問に答える形をとりつつ、金田監督と交代で話を進めているうち1時間半の持ち時間はたちまちなくなってしまった。その後、私の本にサインを求める人達と話しを交わしていると、この教室では次の講座が始まるとの事で、スタッフの方から講座予定の入っていない隣の教室を提供してもらい、ここに場所を移し本へのサインと質問に答える形で実演する。非常に熱心に質問をしてくる何人かの方々があり、その熱意に私も感染していろいろと動きながら解説しているうち、本講座と同じ1時間半ぐらいの時間がたちまち過ぎてしまった。
この第2ラウンドの講座では、定時制高校の陸上競技でかなりの記録を出しているらしい女子高生の表情が最も印象に残った。いろいろと事情があるのだろうが、定時制に通い、しかも陸上短距離という絶えずトレーニングをしなければならない部活動をして実績を残しているというのは、肉体的にも精神的にも現在の一般の高校生が置かれているのとは違った厳しい状況にいるに違いない。だが、その陸上競技への彼女の思いが、彼女をして生き続けることに強い意志を生み出しているのだろう。ちょうど戦乱が絶えない国で、それでも希望を捨てずに生きている若者を描いたドキュメンタリー映像に出てきそうなこの女子高生の表情を見ていると、つくづく人間は環境の産物だと思えてくる。
その後は、また京王プラザホテルの「樹林」へ寄り、桐朋学園の先生方5人と食事をしながら、又いろいろと体の使い方などについて話す。その後、桐朋小学校の古谷先生の車で送って頂く事になって、一同で地下駐車場まで下りるが、人気のない駐車場だったので、この日金田監督とは1度も手を合わせていなかったことを思い出し、またひとしきりここで切込入身や何やらつい稽古をやってしまう。
そんなこんなで、結局各先生方をそれぞれ帰られるのに都合のいい場所に降ろしつつ私の家に古谷先生の車が着いたのは、もう午前零時頃だったと思う。ところが、「あっ、こんな時間ですね」と言いつつ、場所も道具も揃っている所にいると、この日何人もの人に説明しているうち気づいた事などもあり、ついついまた稽古を始めてしまう。
特に帰りの車中で、膝の僅かなヌキがより短い距離で出来るようになる事と、昨年暮れに吉田氏が中国へ行って学んできた中国武術の練功法の中の1つの動きとの関連が俄かに明瞭になってきたので、それを確認したくて古谷先生といくつかの動きをやってみる。その結果、ある手応えを感じて漸く古谷先生の車を見送った時は1時をまわっていた。
そういう状況下で、昨日はアメリカンフットボールのクラブチームとしては強豪のひとつとして知られているA飲料のチームの代表やコーチ、選手といった方々が、ある方の紹介でみえた。ただ昨日は前日に桐朋高校の金田監督とのトークを朝日カルチャーセンターで行ない、何時間も動いたり喋ったりした上、久しぶりに外食らしい外食を京王プラザホテルでとり、その上コーヒーを飲んだためか、昨夜から朝にかけて体がビックリしたらしく一層訳の分からぬ体調だった。前日も4時間弱の睡眠で体はかなり疲れているはずであるにも関わらず、久しぶりのコーヒーのためか瞼が弛まず山積みしていた用件をあれこれやっているうちに夜が明けてしまったのである。
これはいけないと7時過ぎに布団に入ったのだが、いろいろとやらなければならない事が気になっていたのか9時には目が覚め、もう少し寝ていようかと思ったが寝られそうもないので片づけを始めるが、とにかく最近は急を要する用件が連日のようにいくつもあり、その優先順位を考えながら仕事をしているため、かなりのスペースに依頼の手紙やFAX、ゲラなどを広げなければならなくなり、しかも一旦広げるとそれぞれ微妙な関連があったりしてすぐには積み重ねて片づけられないのである。
それでもとにかくやらなければとあれこれやっていると、道場前の行き止りの坂を1台の高級乗用車が上がってきた。「ウワッ、これは時間を間違えたかな」と思って慌てて予定を書き込んだノートをもう1度よく確認すると、何と2時と思い込んでいたA飲料のアメフトチーム一行の方々の来館は午後1時となっている。慌てて片づけのスピードを上げたが間に合う筈もなく、A飲料の相談役をされているS氏をはじめとする4人の方々には10分程度玄関の外で待って頂き、とにかくある程度でも動けるスペースをつくって引越し準備中のような酷い状況だったがとにかく入っていただく。相談役のS氏は30分ほどで次の予定先に行かれるとの事だったので、取り敢えず同行のT氏を相手に実演を始める。間もなくS氏は帰られたが、その後残られた2人の方を相手に、それから3時間は殆ど動きっぱなしの喋りっぱなし状態だった。
2時間位いろいろ説明していると、最初はいぶかしげで固い表情だったT氏にも時折笑顔が見られ、5時近くなるとかなり術理は理解されたようだった。(私にとってもアメリカンフットボールの攻防に関して新しい対応法をいくつもみつける事が出来て有効だった)とにかくスポーツはいろいろとルールによって動き方が制限されているので、その枠内で動きを工夫せねばならず、これは私が以前から言っている事だが、そうしたルールの規制が動きの質的向上を嫌でも工夫させるようである。
とにかく4時間ほども私の話を聞き、何十回も私の技を体験してゆかれたのだから、「わざわざ大阪から来たのに時間の無駄だった」とは思われなかったようだ。もし「何の参考にもならん」と思われたら、4月17日に神戸女学院大学で私の講座にも出席したいなどとは言われなかったろうから・・。
それにしても2時間の睡眠で昨夜からリンゴ1個以外何も食べずに、体重が私の1.5倍の人を相手に4時間いろいろ動いて空腹感も疲労感もあまりない、というのは良いことなのかどうか考え込んでしまう。(どうも身体の感覚が鈍っているのではないかという危惧がある。ただその割にはよく体は動くし全くどうなっているのかよく分からない)
ただ2月に体調を崩してから食事の好みはかなりハッキリとしてきた。2月の終わり頃から家にいられる時はほとんど玄米、丸麦、キビ、アワ、ソバ等の混合飯にはまって、あとは大根、人参、小松菜、セリ、ニラ等に納豆、山形の菊池良一氏の漬物など。漬物は漬物の床と漬けるものを送って頂いたので大変助かっている。特にキクイモの漬物は気に入っている。動物性のものは、先日山形へ行った折いろいろ御馳走になってからある程度は摂るようになったが、どうも今はまだ摂るよりは摂らない方が体の透明感はあるように思う。
現在体重は61キロ前後だが、自分自身としては60キロ前後くらいの方が動きやすいような気もする。稽古の焦点は先日も述べたが、膝のヌキをより短くし、その間に全身をまとめること。それを体術はじめ剣術・杖術・槍術・手裏剣術等に試みていろいろ検討しているが、明らかに動きの質が違ってきた。そして膝のヌキを小さくすればするほど中国武術の站椿との関連が見えてくる気がする。
ただ、睡眠不足に又さまざまな実験的な体の使い方をしていると、今年の初めと同じ状況となり、再度体を壊しかねない。昨夜はそんな自分の中にある何だか取り憑かれたような稽古への情熱をハラハラしながら見守っている母親のような自分がいる事にも気づき、思わず苦笑いしてしまった。
そんな中にあって、今年初め都内の稽古会に参加されたT氏が卓球雑誌に載せるとの事で書かれた"「古武術」の発想がプレーを変える"は、一万字ほどあるその原稿を読んでみて僅かな事実誤認が2ヶ所ほどあった以外は、「て、に、を、は」が重複していたり抜けていたりする単純な校正ミスが2〜3ヶ所あった以外まったく何も直す所がなく、その達意の文章の見事さに感服してしまった。"「基本」と「反復練習」を捨てるつらさ、楽しさ"というサブタイトルのつけ方もセンスの良さが光るが、
「新しい卓球」を作っていく事、それは「二流プレーヤー」である私たちに与えられた役割ではないだろうか
という結びも、このT氏の配慮と説得力がただならぬものを感じさせる。
ただ、これを読んでいてフト思ったが、T氏は御自身を「二流プレーヤー」と規定されているが、私自身はもし古の武術の名人達人を超一流とし、その下に一流があったとしても、まあ765流ぐらいかなあと思う。(こんな所で細かく数字を書くのは、きっと今日発売の某コミック誌にとうとうその名が出たという我が畏友の影響だろう)せめて300流台にはなりたいものだ。
T氏の文章が載った雑誌も刊行されたら、また縁のある人に綱がかかるかも知れないが、一昨日送られてきた『週刊医学界新聞』(2529号、3月31日刊 医学書院)に載っていた「鼎談 もうひとつの動き 桑田投手はいかにして武術の身体運用を取り入れたか」も縁のある人への綱かけになりそうな内容。この鼎談は桑田真澄投手、神谷成仁巨人軍理学療法士、竹中弘行湯河原厚生年金病院理学療法士の3人の方々が、桑田投手がどのようにして私と出会い私の動きを投球に応用していったかを、4ページに渡って述べられているもので、一般に出回っているスポーツ誌や野球誌に比べかなり踏み込んだ発言が多く載っていた。
それにしても今日は講談社のオブラ誌とフラウ誌の取材と写真撮影が午後から2時間の時間差で続き、明後日はNTTのPR誌『ニューパラダイム』誌のインタビューで、これは結構時間がかかりそうだ。ただ、明日は久しぶりに新潮社からの企画で養老孟司先生と夕食を御一緒する予定が入っていて、これは楽しみである。
やることは相変わらず山積みしてはいるが、道場の屋根の上の桜は五分咲き。この頃は日も長くなったし、20分ぐらいでも外に出て春を感じてきたいと思っている。