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最近の私は「その日ぐらし」というより「その時ぐらし」いま目の目の前にあることやらねばならないことをやって、先々の予定はなるべく思い出さないようになってきている。
今日は夕方から朝日カルチャーの講座に出かけたが(いまその帰りの車中でこれを書いている)、その前に俳優のE氏と付人のT氏が来館。そしてその前に、帯広の古書店から長年私が入手したいと思っていた、故俵国一博士の名著『日本刀の科学的研究』が届く。
やらねばならないことが山積していたから、本の梱包を開けるのもためらわれたが、どうしても誘惑に勝てず開封する。
昭和二十八年の刊行といういから、日本が戦争に負けて八年しか経っていないことになるが、装丁はかの棟方志功氏、写真も数多く、この本づくりに関わった人達の熱意と技術の高さに、気圧されるほどの充実した内容に、拾い読みしていて思わず、小一時間ほども使ってしまった。
価格は二千円とついていたから、あの時代の物価の感覚を現代におきかえて考えれば数万円という高価さである。
しかし進駐軍の厳しい目のなかでも名刀を守り通した人々にとって、ようやく公然と日本刀の所持が認められてほどない時期なだけに、この本は造刀にも関心をもっていた日本刀の愛好者が金を惜しまず購入したのではないかと思う。
とにかくこの本には敗戦後まもない日本人の復興への意気込みと、こうした本が刊行できるようになった喜びが感じられる。こうした本を読むと私がいま関わっている本づくりもいい加減妥協はせず、出来得る限り納得のいくものにしたいという思いがあらためて湧いてくる。
本書の購入に関してはA氏の世話になった。神田の古書街では四万円台の本書をその六割ほどの価格で掘り出したA氏の手腕と尽力に深く感謝したい。
帰宅してみるとPHPの太田氏から多田女史との共著『武術の創造力』の書評が載った本日付けのサンケイ新聞のコピーがFAXされていた。評者は養老孟司先生。あまりに過分な評価に「本当にそんなに面白かったかなあ。」と思わず読み返してしまった。
そして、あと岡山の光岡英稔氏との共著。その上、内田先生との対談というか対論本。早くも内田先生から数千字に及ぶ初回原稿が来ている。読むとつい答えを書きたくなるので困ったというか有難いというか・・。
そうした予定を頭の中で次々と考えていると、それだけで疲れてくる。ただ、その疲れがかなり癒された気がしたのは、宮城の山奥から届いた厚板で工作したからであろう。これは炭焼きの佐藤光夫氏にかねて依頼しておいたものだが、3枚届いた杉板のうち1枚は厚さ2寸(6センチ)幅一尺七寸(52センチほど)、長さ6尺(1,8メートル)。あと2枚は幅が若干狭く、厚さ1寸5分(4,5センチ)。それにしても見事な板である。
以前から置いてある、杉の伐根の丸太をチェーンソーで縦挽きに挽き割ってテーブルと棚の台として、道場内の空間を有効利用して本格的に片付けを始めた。
とにかく間断なく様々な用件が入ってくるが、片づいていないと効率が著しく悪いので、昨日の土曜日と今日夕方から千代田区の体育館での会で出かける前、思いきってチェーンソーを取り出したのである。
数ヶ月間使っていなかったので、エンジン始動の紐を10回ほど引いてもエンジンがかからず半ば諦めかけたが、正規の方法ではない変則手法で漸く発動。チェーンは弛みもあり、ヤスリで目立てもしていないので、切れ味は今ひとつだったが、直径50センチと30センチほどの伐根2つが10分もしないうちに2つになるのだからチェーンソーの威力は凄まじい。「これじゃ世界中の木がなくなるわけだ」と、その効率の良さに感嘆しつつも心中は多少複雑。
しかし切り割った伐根の長さを調整したり、ヒビ割れを補修したりして棚とテーブルを作っていくうち、久しく忘れていた「モノづくり」の楽しさに気分は高揚してきた。
これで片づけも順調に進めばずいぶん気持ちも楽になると思うのだが、とにかくここ最近の私のシナリオは、私から時間を奪うように奪うようにと出来ているらしい。
昨夜も「今夜こそは2時前に寝よう」と一大決心をしていたのだが、私の武術の核のひとつともいえる手裏剣術の打法が、ここ最近掌に張りを持たせたままで打つという事が漸く本格化してきたのに伴い、用剣の寸法を今まで使っていた6寸1分(18,4センチ)から6寸2分(18,7センチ)のものへと、3ミリほど長いものに統一しようと思っていたのだが、以前たまたま試験的にそれよりもずっと長めに江崎氏に作ってもらっていたものを試みた結果、その方がどうもよく手になじむ感じがしたたため、「おや、これは?」と思い、そうなると2時前に寝ることなどどこかへ飛んでしまい、検討に検討を重ね、漸く布団に入った時はすっかり夜が明けてからであった。結局、剣はさらに3分(9ミリ)前後伸ばして全長6寸4分、最大径である横手筋のところから剣尾まで4寸4分(13,2センチぐらい)にする事に決めたのである。したがって、今後私が使う剣は、6寸4分、約19センチ強というかつてない長さとなる。
今から6年ほど前、江崎氏が使っていた剣が私のものより若干長かったという事から、長い剣の有効さに気づき、それまでの用剣を段階的に長くして、6寸1分ほどに決めて5年。もうこれが決定版と思っていたのだが、今回またそれを長くする事となった。考えてみると、そうした気づきの節目節目に江崎氏が登場しており、縁の不思議さをあらためて考えさせられた。
ただ、このM商会行きは意識の中にあったからいいが、恐らく私の連絡待ちの人は5〜6人はいるような気がする。ところが、誰だったかなあ、と思い出そうとするモードに入りかけると又電話やら手紙やら・・でいつの間にか思い出そうとする事も飛んでしまう。それほど急がない用件など2ヶ月以上そのままになっている。そして、よく忘れる。忘れないとノイローゼになってしまう恐れがあるからかも知れないが、ニワトリ並みになってきて、さすがに自分でも心配になるほど。昨日の千代田区での会などもギリギリ遅刻しそうになったので、会を手伝ってくれている会員諸氏は「まさか忘れられてはいないよね」「いやぁーひょっとしたら」と噂していたらしい。
とにかく連絡待ちの方は今一度確認して下さい。FAXは何かにまぎれる事もあるので御電話下さい。基本的に私はFAXでなければならない用件(原稿や図版、こみいった用件の説明等)以外、単純なお礼とか確認にFAXを使用される事に慣れていませんので、よろしくお願いします。
折りしも畏友G氏から「最近のHPを見ておりますと、最後は決まってと言っていいほど、スケジュール確認のお願いとなっています。どうも収拾がつかなくなっているようで、見るに忍びません。そこで、スケジュール管理用にディジタルボイスレコーダーを買われては如何でしょうか。」という狂歌つきのファックスをもらい、思わず吹き出してしまったが、さすがに我ながら情けなくなる。
どうか近々私と何か約束されている方は確認のお電話を下さい。
今のところ当方で確認済みは12日のNHKのM氏との打ち合わせ。13日、池袋コミュニティ・カレッジの講座。(この講座の前後で約束されている方は御連絡下さい) 14日は内田樹先生とのトークショーへ名越康文氏と朝日カルチャーセンターへ。その後、身体教育研究所の野口裕之先生のところへ。したがって、この日稽古は出来ません。
15日はNHKのテキストづくりのための写真撮り。16日はザ・アールの奥谷女史との対談で麹町のザ・アール本社へ。その後、近くのT社の田村氏に会い、18日同じ場所で田村氏と打ち合わせ。19日、恵比寿稽古会へ。20日、21日はT社の原稿チェック。22日は田上氏との対談で同じくT社へ。23日養老先生との対談で新宿のホテル。その後朝日カルチャーセンターへ。24日、25日はNHKの仕事で多分大変だろう。26日、E氏来館。27日、資生堂ワードの講座へ。
この他、今D社を通しての或る雑誌に載るインタビューの赤入れ中。16日までには返してほしいとの事だが、「本当に人の言った事をちゃんと聞いていないなあ」とタメ息が出るほど大量に赤入れしなければならない。D社といえば、こういう仕事では天下のD社。また、載る雑誌は日本有数の大企業のPR誌。その編集が、物書きのセミプロの私にタメ息をつかれるほどの国語力なのだから、数学者の藤原正彦先生が「いま、国語力の危機だ」と嘆かれるのも無理はないという気がしてくる。
いま一番の課題のT社の企画のライターさんの筆力が、どうか期待通りでありますようにと祈るばかり。別に圧力をかけている訳ではありませんが、田村さん、神崎さん、頑張って下さい。
今、これを書いていて、そういえばS社で藤原先生との対談の企画があった事を思い出し、S社のA女史に船曳氏の著書を送って頂いてお礼も言っていない事を思い出した。この場を借りてお礼申し上げます。
それから昨日、産経新聞の長辻さんから御著書『江戸の釣り』と『武術の創造力』の書評をお書き頂いた『週刊ダイヤモンド』誌を送って頂いた事も併せてここでお礼を申し上げさせて頂きます。
以前、名越氏やマキさんと書いた『スプリット』の中にも引用したが、「自己に対して破壊的であること、ものごとに対して根源的であること、状況に対して危機的なまでの緊張感を維持すること、これらを阿部薫はアルト・サックス一本でなしえてしまう・・・・・」(阿部薫の死の十日ほど前、札幌であったライブのちらしの中の文章)「実際その頃の私達は『演奏によって一瞬を爆発させ、人間をその事によって存在の呪縛から解き放つこと』を考えていたし『出来得る以上の過激さとスピードの極限に行き着くこと』を願っていた」(阿部薫に大きな影響を与え、阿部の死後三ヶ月でみずからも死を迎えた間章(あいだあきら)が遺した『〈なしくずしの死〉への後書き−阿部薫の死に−』)
等をあらためて読み返し読み返しして、人間という他の動物ときわだって異なる生物がその欲望を充足させようとした時、どういう方法をとるべきなのかを考えに考えつづけた。
そして一夜あけた今、ようやく人と人とがそのまま生まれた時から持っている身体そのものか、剣や杖などきわめて単純な道具で、各自の存在をかけて対峙する武術というものの意味をあらためて問い直そうという気になってきて、これを書いている。
2,3日前、釣り竿は撓むが故に大きな魚でも釣り上げやすいのだ、という事に気づき(もしも釣り竿が全く撓まぬ剛体だったら数メートルの棒の先に数キロの錘がぶら下がる事になるから、手元には大変な力がかかることになる)、こんな当たり前の事を何十年も気づかなかったのかと呆れたが、気づきがあまりにも突然だったのでちょっと感動した。
しかし、昔日の槍術の名人は、そうした撓まない棒である槍の先を何人かに持たせてハネ飛ばす事が出来たのだから、その術の妙にはまだまだ程遠いところに自分がいる事もあらためて感じた。
2、3日前といえば、14日の土曜日は名越康文氏と共に、内田樹先生の対談を聴きに朝日カルチャーセンターへ行き、その後内田先生と教え子の方達と食事をして、二子玉川の野口裕之先生の所へ伺った日である。今こうしてこれを書いていて、気づきもいろいろあった事まで思い出したし、更に一昨日の日曜日はNHK教育TV関連の写真撮りがあった事も思い出したのだが、今思い出してみても、それがもう2ヶ月も前の事のような気がする。
ただ、『阿部薫 1949〜1978』のインパクトはいまだに強く体に残っている。ここ数日、久しぶりに阿部薫のCDも聴いているが、自分が存在している事の葛藤に悲鳴をあげているようなその音は凄まじい響きを持っている。
明日からはT社の本作りで夜も昼もないような日々。せめて今日は、アメリカから心温まる手紙を頂いたり、上野動物園で開かれるコウモリ・フェスタの愛嬌のあるコウモリのポスターが水野氏から届いたりしたので、少しゆっくりしようと思っていたら、T社製作スタッフ神崎氏から電話。明日の打ち合わせに使う資料や準備出来たものを「これからバイク便で送ります」との事。嵐の前の静けさと思っていたのに、少しずつもう風が吹きはじめてきたようだ。
私と共に表紙に写真で載られるのに、制作スタッフの注文どおり気楽に茶目っ気タップリのポーズに応じられて、しかも少しも媚びるところがないのは、やはり人としての力量だと感じ入ってしまった。養老先生は次の予定に遅刻されたようだが、私は次の予定の朝日カルチャーセンターの講座にギリギリで間に合った。
朝日の講座は、今期の最終講座であったが、先週の木曜日、恵比寿稽古会で気づいた最新の技(技というか一種のデモンストレーション)を何人もの人に試みるが、全てに有効。その技の感触の面白さに子供のようにはしゃぐ人が何人もいた。その技というのは、私が拳を床につけた形で前屈して立ち、その拳を床につけた方の片腕の手首辺りでも肘の辺りでも掴みやすい所を、受け手が両手に足(膝の内側など)まで動員してしがみついているものをヒョイと持ち上げる、というものである。
この体勢では普通なら両足を踏ん張ってウーンと相手を引き上げようとしても(仮に私より体重が軽いとしても)数10キロもあるため、そう簡単には持ち上がらない。ましてや私よりずっと重い人はもっと大変である。ところが足裏を踏ん張らず、薄氷を踏むようにして上手く使うと、いきなり受け手の体全体が上がってくるのである。それがあまりにヒョイと上がるので、胡坐をかいたような恰好で手足を絡め、見栄も外聞もなくしがみついていた場合、空中に上がってから体勢が崩れ、背中から床に落ちる者まで出た。
面白いのは、とにかく体験者が異句同音に、私の手に引き上げられたというより、大きな籠か何かに入れられ籠ごと持ち上げられた気がする、と言うことである。あまりに軽々と上がるので、初めは私も感応しやすい人が無意識の内にも受けをとる現象が出てしまっているのではないかと怪しんだが、1人の例外もなく掛かる事と、胡坐をかいたような姿勢でしがみついていると、私の手に合わせて床を蹴って自分の体を上げようとしても出来る訳がない事が分かり、どうやら実際に技として有効だという事が分かってきた。ただ、なぜ上がるのか、ハッキリとした理由は不明。多分、足裏の垂直離陸で体じゅうのあそびが取れ、体全体の中で相手を持ち上げる動きに直接参加出来る割合が、普通の足踏ん張り方式より増えたためだとは思うが、それにしても余りに違うので、それ以外にも体の中に動滑車のような動きが出来たからだろうかなどと、いろいろ思い、養老先生にも同行の水野氏相手に実演をお見せして、御意見を伺ったりした。この技に関してではなかったかも知れないが、私の技を楽しそうに御覧になっていた養老先生は、「だから人間の動きは複雑すぎて分からないんですよ。それを科学はかなり乱暴な事して分かったつもりになって説明しようとするからおかしな事になるんで、科学に出来る事なんてこんな事ぐらいですよ。(と言われて、小田急の14階から見下ろせる新宿のビル群を指され)こんな箱は出来るんですけれど汚いでしょ、これ。この間、四国の天然林行ったけど、いろいろな木が混じっていて本当にキレイでしたよ・・・」と、どんどんお話は展開していってしまわれた。
朝日カルチャーセンターの後は、すぐに整体協会 身体教育研究所へ。私から野口裕之先生にお願いした木彫彩漆工芸作家の渡部誠一師の操法の御礼というか御挨拶とお話を伺いに行く。渡部師の操法の後、渡部誠一、野口裕之という稀有な芸術的センスを持たれた方のお話をライブで聞かせて頂き、この御二人がどれほど優れた感性を持たれているのか、私にはとても測り難いが、ただその凄さだけは少なからず伝わってきて深く感動した。
渡部師は、木を彫る時も漆を塗る時も、ミニチュアを作ったり試し塗りなどといった事は決してやらず、常に一発勝負との事で、その事には日頃から反復稽古はあり得ない、失敗はあり得ない、と言われている野口先生も深く共感されていた。更に野口先生は1冊の写真集を渡部師に見せられたが、これを開いた渡部師は「まるで絵のような、こんな写真があるんですか」「これは偶然ではありませんね。この人の美の追究の修行の結果ですね」と感嘆されていた。
この対談の中で私が一番衝撃を受けたのは、渡部師がそれまでの数十年に及ぶ木彫の経験からいって、十分に枯らし絶対にヒビの入る筈のない楠の材が、牛を彫っている時にピシッピシッと2ヶ所にヒビが入って、それ以上彫るのを断念した、という話をされた時、「ああ、それは間ですね。それは面白い。その彫りかけの牛は今度の展覧会の時、是非出品して下さい」と野口先生が言われた事である。この牛の木彫りの時のお話は、今月はじめ私も渡部師ご自身から伺っていたのだが、私は「ハァーそんな事もあるんですね」で終わってしまった。それに比べて野口先生の響きに応じるような反応の速さ。今までにも散々野口先生のセンスの桁違いぶりには息を呑んできたが、昨夜は久しぶりに背筋が冷たくなるほど野口先生の凄さを感じた。
同時に、これほどの美的センスの持ち主が、現代のような目先の利益が最優先されるような時代に生き続けられている事はどんなに辛いだろうと、今までいちばん胸の辺りに、ある種の具体的痛みも伴って心が疼いた。
野口先生と、もう20年以上も親しくさせて頂いているが、こうしたセンスの差というものは全く縮まらないものだと、あらためて思った。ただ、それは不思議と自らの未熟を嘆く思いには結びつかず、「これほどの人の真価がもっと理解できる人が増えればいいんだがなあ」という願いになってゆく。
そういえば、以前どの本かに書いたが、モーツァルトの才能を激しくうらやんだサリエリが「神は私に天才と凡才を見分ける能力だけをお与えになった」と言って嘆いたというが、私は野口先生や渡部師のような方々の凄さを感じられるだけで十分であり、この美的センスと並びたいとは不思議と思わない。その理由は、この美的センスという願望が、具体的にイメージしやすい財産とか能力と違うからかも知れないが、とにかく「人間にとっての自然」「生きている事の意味」といった"見性"とも通じるような事は、まさに自分が実感体感して初めて分かることであり、うらやんだり、うらやまれたりする事ではないからのように思う。
それにしても昨日1日で3人もの現代日本では、日本中探してもこの人の代わりは決して務まるまいと思われるほどの傑出した方々に親しくお目にかからせて頂き、今更ながら私が稀有な人達と出会える運に恵まれている事を再確認することが出来た。
といっても、技の研究の優先順位は更に高いから、昨夜は30年来の武友である伊藤峯夫氏と夜2時間ほど稽古し、今日は信州の江崎氏とも数時間共に稽古をする。伊藤氏との稽古も江崎氏との稽古も、最近は2〜3ヶ月に1度という状況になりかけているので貴重な一時だった。もっとも伊藤氏とは、22日にT社で行われた金沢大学の客員教授で、ホンダの二足歩行ロボット、アシモの開発スタッフをされていた田上勝俊先生との対談の折にも、私の技の解説の相手に来ていただけたので、週に2度会うという近年では滅多になかった状況となり、最近の私の技の解説に対する通りもよかった。
伊藤氏の事については『縁の森』や『人との出会いが武術を拓く』の中でも述べたが、かつて私にとっては憧れの先輩であり、剣術に関しては、いろいろ私に手解きをして下さった方である。それがいつの頃からか私をたてて、私の受けとして演武会等にも出場して下さるようになったのである。武道界の一般常識として、これは極めて稀なことであり、25日も伊藤氏を見送った後、伊藤氏の権威や見栄に捉われない武の技の探究心の純粋さに、あらためて頭が下がった。この伊藤氏と江崎氏来館のお陰で、膝のヌキと足裏の垂直離陸は、共に膝が曲がるが、その内容に大きな相違があり、うまく体を使うと体の浮きとドッシリした体の重みという相反する性質を同時に体現出来るようになる、という具体的予感がしてきた。
それから、これだけ多忙な中でも江崎氏の来館を特に歓迎したのは、今月に入って常用の手裏剣を長くしたのに伴い、今まで使っていた剣の拵えの作りかえや新しい拵えづくりを依頼したいという希望があったからである。
私の剣の改造点や作り方の微妙な希望を述べて、それがまるで乾いた砂地が水を吸い込むように吸収理解してもらえる快感は何ともたとえようがない。私には他に変わりようのない畏友や知人は幸い何人もいるが、江崎氏もこと手裏剣の分野では他に誰も変わり手がないほど話が通る。
それにしても本日、江崎氏にも体験して確認してもらったが、今までより2〜3分(6〜9ミリ)長くした剣を、長くなった分長距離を利かせるようにと重心を後ろにもって来るようにしたつもりのものが、かえって前へ回転しやすくなる、という現象は実に奇妙だ。奇妙なだけに場所と時間を得て、是非この謎を究明したい。
そう思うと、どうしても高畠のデジタル・スポーツ射撃連盟の射撃場が目の前に浮かんでくる。「ああ、早くやる事やって、あそこへ行きたいものだ」と、心は山形の地へ飛ぶ。そして、そのためにも、と思ったわけでもないが、何しろ急ぎの本づくりなので、今日は夕方からT社の本に専念するため、制作会社のA社に深夜まで籠もって、原稿に校正を入れ、今はその帰りの車中でこれを書いている。
そして、帰宅したら、明日I先生に車で運んで頂いく予定の7月1日の"ラフレさいたま"での講座に持っていく本などの荷造りをしなければならない。しかし、ラフレの講座(正式名称は「朝日カルチャーセンター・ラフレさいたま特別講座」『古の武術を求めて』)が、稽古会ではなく、100人以上もの人達を対象とした話し中心のものであることを知ったのが、一昨日というのも何とも間のぬけた話だ。そして、これもこの時知ったのだが、ラフレは予約申し込みではないので、当日受付も可との事。
費用も700円という事ですから、ウイークデーの午前10時30分から12時という時間帯ですが、御関心のある方は問い合わせを朝日カルチャーセンター事業部 Tel 03-3344-2041にされるといいのではないでしょうか。