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金曜日27日は資生堂ワードの講座で銀座へ。5月にミキハウスであった王会元 龍谷大学卓球部コーチとの交流の様子のビデオが何とか間に合って、あらためてあの時の王監督の動きの見事さを思い返した。このビデオ映像を講座の中で少し流す。講座は普段の定員より多めとの事で、いろいろ熱心な質問も頂き、御招待で来て頂いた方々との打ち上げも賑やかだった。
この席にトランペッターの近藤等則氏の知り合いの方がみえて、近藤氏からことことづかったというCDを頂き、携帯で何年かぶりに近藤氏とも話しをする。
帰りは市ヶ谷のA社に寄って、7月にT社から刊行予定本のゲラ等を受け取ってから家までバスケットボールのI先生の車で送って頂く。家に着いた時は2時を回っていたが、わざわざ回り道をして送って頂いたI先生と少し稽古。この時、足裏の垂直離陸と膝の抜きの同調を初めて両足に試みる。確かに今までと違う手応えだったが、そのため背中の筋肉がつり、この影響は2日ほど残った。
28日は、東京での稽古会のため前日から上京中の、岡山の光岡英稔氏が来館。益々動きが向上し、益々謙虚な光岡氏の人間としての魅力はひときわ光っていた。とにかく、いま日本でどれほど使えようと、中国で遥かに自分より上の人に出会ってしまった、という事は、光岡氏の求道心を一層強いものにしているのだろう。近代中国でその人ありと知られたO師の、いわば四天王の1人と謳われたK・S師からの信任が厚いのも十分納得がいく。結局、深夜3時頃まで話したり稽古をしたり・・。
そして翌日は、岡山へ戻られる光岡氏を羽田空港に向かう浜松町のモノレール乗り場まで見送り、私は再び市ヶ谷のA社へ。そして昨日も久しぶりに桑田氏と稽古をしてからA社へ。仕事に熱を入れているうち終電を逃してしまい、新宿から高速バスで帰宅。
そして3時間ほど寝て、今ラフレさいたまの朝日カルチャーセンターの講座へ向かっているところである。
一昨日の水曜日、このところ連日オフィスの勤め人のように、校正その他で通っているA社に行くため、3時には家を出ようと思っていたのだが、諸々の用件で2時間遅れとなる。そしてA社に着いてからは、午前1時頃までぶっ通しで校正したり原稿書き等々をする。その後食事に出て、A社近くのH旅館へ泊り込んで続きをやる。この旅館には翌3日の夕方までいられるとの事で、前日も寝不足なので、やるだけやって昼近くまで寝ていようと思ったのだが、寝ついて3時間ほど経った朝7時半に「お食事の用意が出来ました」と起こされてしまった
「何という事だ、食事なんて断って寝ていよう」と思ったが、目が覚めるとやらなければならない事が次々に頭に浮かんでしまう。こうなったらもう起きて、後で昼寝をしてから夕方の恵比寿の稽古に出ようと思い、起きて急ぎの手紙を書いて、再び校正に取り組む。やり出すと、どうしても集中するから気づけば11時。A社のスタッフが新しいゲラを持って来館。
それにしても、このH旅館の居心地はいい。茶色に変色した畳、窓枠は木製、天井の低い六畳間には不相応な長大な蛍光灯2本の照明に長押のホコリが白く光っている。蚊が多いらしく電気蚊取り器やら冬用のストーブ、それと6時5分前を指したまま止まっている古い時計やらがゴチャゴチャと床の間に積んである。あらためて如何に物書きの籠もり場所としてホテルは具合が良くないかを実感した。ホテルはまず部屋が暗い、机が狭い、机と椅子の高さが合わないと大変具合が悪い等々、いろいろやりにくいが、その点畳の上だと書いた原稿やゲラを机の周りにも並べられるし、そのままゴロンと後ろに寝て一息つくことも出来る。部屋も明るい。これから出版社に泊まる場所を用意してもらう時は、絶対日本間、それも出来ればこの旅館のような年代ものがいい。
しかし、それにしても、このH旅館にはいろいろと懐かしいものがあった。トイレはさすがに水洗だが、鎖を引くとゴォーと音がして天井近くの箱の中から勢いよく水が落ちてくるあの年代ものの仕掛け。風呂の戸は引戸だが、戸車がその機能を果たしていないので開けるのに両手を使わなければならないほど重い。そして何より驚いたのは、部屋が何室かあるようだが、部屋の出入口がただの襖で鍵も何もないのである。確かに昔の日本旅館はそうだったろうが、今時部屋に鍵がないのは珍しい。まあ襖だけというのもいいが、誰かに間違って入ってこられるかも知れないと思うと、何か落ち着かなかったので、鴨居の上に入っていた丈の低い障子を外して芯張棒の代わりに襖を内側から押さえて寝た。とにかく泊まり心地は上々で(あくまでも私の個人的感想であるが)、今後この近辺に泊まらなければならない時は、是非またここに泊まりたいと思った。
居心地が良かったが、結局仕事が終わらなくて昼寝せずに恵比寿の稽古会に間に合うギリギリの時間までこの旅館で、ひたすら校正。その後ちょっとA社に立ち寄って簡単な打ち合わせを行なった後、稽古に向かう。ロクに寝ていないので少々体調が心配だったが、いざ稽古を始めてみると参加者の熱意に動かされ、よく体は動いた。
この日、私にとっても一番の収穫だったのは、キック・ボクシングに見られる、両腕で相手の首を挟んで膝蹴りなどを放つ首相撲を仕掛けられた時に有効な新しい対応法を見つけたことである。何人かの打突系の格闘技か武道をやっていると思われる参加者が来ていたので、この技を仕掛けてもらい、当初は今までやっていた両腕をすり抜ける方法を試みるつもりだったが、最初に私の頭を挟んで締め付けてくる若者の両腕が予想以上に強かったので、一瞬どうしようかと思案した。
そして、こうした時に私が最もよく用いる手だが、自分の体に任せてみた。つまり道に迷った時は馬を先頭に歩かせると、馬は本能的に人里を探知して山の中で遭難しないという、あの手である。すると、体は頭を挟まれたまま、やや後方で下向きに沈んだ。つまり、こちらの片腕を相手が胸の前で両腕を使ってシッカリ掴む捧げ持ちを崩す方法を、頭を挟まれたのに自然と応用したのである。これはちょっと考えると、相手の膝蹴りを喰いそうに思えるが、頭を挟まれた状態から瞬時に沈むと相手の上半身と下半身が引き伸ばされる状態となり、膝蹴りのための足が出ない事が分かった。稽古が終わってからその人に聞くと、キックボクシングをやっているとの事で、私にとっても興味深い体験だった。
そのような訳で稽古中は体調が気にならなかったが、家に着くとガックリ・・。それでも朦朧としながらA社に送る「はじめに」の文章を書き、FAXを入れたのである。
そして、今日あらためて加筆校正した文章がレイアウトされているものを先ほどA社から貰って帰途についたところである。
さて、明日はまたH旅館に泊まり、6日の日曜日はそこから池袋コミュニティカレッジの内田樹先生とのトークの場へと出向く事になりそうである。
その後、H旅館に戻ったのは午後10時。それから7日の午前の2時頃、4時頃、6時頃と3度に渡って出来たてのゲラが届けられ、とにかくそのまま徹夜で結局午前10時過ぎまで、約12時間ぶっ通しで赤入れをする。その後午後の3時頃までは寝ようと思ったのだが、いつまた緊急の確認事項の問い合わせが入るかもしれないと思っていたせいか、2時間半ほどで目が覚め、その後は寝てはいたが眠ることは出来なかった。仕方がないので2時過ぎに起きて、ゆっくりと仕度をし、早目にこの日の予定の朝日カルチャーセンターへ入る。
朝日カルチャーセンターは、この日から新しい期に入ったのだが、前回から引き続いての受講の方が全体の3分の2くらいで、新しい期に入ったという感じがしなかった。このところ、こうした講座の場で見学、そして、その後打合せや企画の相談ということが多いが、というかそういう事がない事がまず無いが、この日も日本文化財団の佐々木修氏と佐々木氏を私に紹介して下さる千葉商科大学助教授の譲原晶子女史(譲原女史とは、ひょっとすると一昨年千葉商科大学に招かれて以来かも知れない。全く月日の経つのは早いものだ)が、この秋来日が決まっている世界的舞踏家ピナ・バウシュ女史と、その舞踏団に私の動きを見せて欲しいとの事で交渉に来られていて、講座の後、食事をしながらいろいろとお話を伺った。
そして12時前には家に着いたのだが、留守にしていた間に来ていたFAXや手紙に目を通したりしているうち、又々午前3時。明けて昨日8日はNHKの人間講座用のテキストにとりかかる予定だったが、又々いろいろと電話やらFAXやら手紙に荷物やらが来て、その対応で日が暮れる。
ただ、荷物の中に信州の江崎氏から剣尾を長めに拵えを作り直してもらった剣があり、又その剣尾に入れて使う予定の極低温融解金属(熱湯で溶ける)が同便で長辻象平氏(『江戸の釣り』の著者)から届き、しばし時間を忘れた。(江崎氏の仕事の丁寧さには本当に頭が下がる)
しかし、フト我に返れば厳しい現実が待っている。とにかくNHKのテキストを何とかして、晶文社の内田先生との対談本の執筆に入りたい。6日に池袋で対談させて頂き、いろいろと伺いたい事がたくさん湧いてきたので、もう頭の中には抱えきれない。それから光岡英稔氏との本も急ぎたい。又、『ナイフマガジン』8月号で、関根秀樹氏が「鉈大全」という鉈の大特集を書かれたのだが、その書き出しに私との事が出ているので、この方と古川四郎氏、市川進氏との本もなんとかしたい。
関根氏へは、今日K君を通して『ナイフマガジン』を贈って下さったお礼も兼ねて電話でお話ししたが、「そのうち何か一緒にやりたいですね」という事で意見が一致したのは有難かった。
それにしても関根氏の鉈などの生活刃物に関する知識の深さは、恐らく日本で比類がないと言っててもいいだろう。「いやいや参りました」と言うしかない。しかし、こういう事の降参なら大歓迎だ。こういう時の「降参する幸せ」というのは、この道のものでなければ味わえないだろう。つまり書いてある事の95%は、「なるほど、なるほど」「ああ、そうだったな」と理解出来る(話の受けをとれる)から興味がかきたてられて飽きる事がないし、初めて接した事でも前後の解説で、それがどういう事か直に察する事が出来るからだ。しかし、それも関根氏に文才があるからこそだろう。
現在、手仕事に関してこれだけ詳しくて、しかも実地で作れて使えて文才があってという人は関根氏以外ちょっと思い当たらない。
身体を通しての学びという事に漸く光が当たり始めている今日、関根秀樹氏の益々の御活躍を心から祈りたい。
とにかく技が常に変化しつつある私が、何ヶ月も前からそれに向けてのテキストを作るという事自体不自然なのだが、今回は前例にない作り方に、最大限努力しますからと昨日池袋の講座の後NHKの方々に熱心に口説かれて、これ以上迷惑をかけては申し訳ないので断ろうとさえ思っていたが、あらためて引き受ける方向に心を決める。ただ、今月は月のうち半分は家にはいない予定なので、忙しいなどという言葉では言いあらわせない、いままで経験した事のない日程の過ごし方になりそうでもある。当然、気は重いがその気の重さが、何かの歯止めになっている気もするから致し方ないのかも知れない。
その重い気持ちを抱えてフト庭を見ると、水蓮鉢の近くにオハグロトンボが優雅に羽を羽ばたかせている。子供の頃は見馴れた夏の風景だったが、庭でこのトンボを見るのは一体どのくらいぶりだろうか。僅かな僅かな時間だったが、しばらくは忙しさも忘れて見入っていた。
この日、久しぶりに会い、いろいろと荷物を持ってくれたりと、私の付き人をやってもらった白石氏と共に、野口氏の車で、この夜の宿泊予定となっている精神科医の名越氏宅に向かう。名越氏は東京出張中で留守という事もあり、野口氏らに誘われて名越宅の近くで食事。その後、マンションは私1人となるので、「もう後は寝るだけだ。何しろ昨日は1時間ぐらいしか寝ていないからなあ。」と、「もう眠るぞ」というモードで名越宅のマンションに着き、鍵を開けようとしたのだが、何と必ず入れてあった筈の所に名越氏から預かっている鍵がない。「あれれ・・」とバッグの中身をひっくり返して探したが鍵が見つからない。どう考えてもない筈がないのだが、見つからないのだからどうしようもない。
その時、NHKテレビの事もあるし、「あっ、今日は帰れという事か・・」と思って時間を確かめると、最後の新幹線に間に合うかどうかという時間。一気に気持ちを切り換え、帰宅する事に心を決め、新大阪の駅まで野口氏、白石氏に送ってもらう。そして結局、東京行の最後の"のぞみ"21時19分発に乗る。東京に着いても、既に最寄り駅までの電車は終わっていたので、別の路線で比較的近くまで行き、後はタクシーで何とか帰宅する。
それにしても東京駅から中央線に乗り換えて家に向かっている同時刻の24時間前は、まだ身体教育研究所で名越氏らと野口裕之先生に興味深い話を伺っていたのだから、この24時間の強行軍ぶりはさすがに私の人生でも前代未聞の事だ。それでもあまり疲れた感じがしないというのは、一体良いことなのか、気づかないうちにツケがたまって来ているという事なのか、不気味な感じだが、まあ私の人生の脚本がこうだったと思うしかなさそうだ。
「それで鍵は?」と皆に聞かれそうなので、間の抜けた話をしなければならないが、結局鍵はバッグの中の、今まで「そこにそんなポケットがある事も知らなかった」という所に入っていたのである。
それにしても最近は教育関係の方々からの依頼(と同時に現在の行政のいい加減さへの嘆き)が多い。バリア・フリーが声高に論じられるにつけ、子供を取り巻く環境はますます体の運動能力の発達を促さない方向へと向かっているようだ。
校内で転んで、手がつけないため歯を折る子が続出したので、転ばないような床の改装工事を施すという事を嘆かれている小学校の先生からの便りに、まあ何か私に出来る事があればと思うが、とにかく今はNHKの人間講座のテキストづくりという差し迫った問題があるので、申し訳ないが、ちょっと今はすぐ何をとは頭がまわらない。
「それでも少しでも何か手がかりになるものが・・」と希望される方には、来週宝島社から刊行予定の写真図解のムック本『古武術で蘇るカラダ』のインフォメーションを行ないたい。この本は今まで私が出した本の中では、具体的な体の使い方について一番分かりやすく解説がされていると思うので、取り敢えずこれを参考になさって、いろいろと御自身の体の使い方なり子供達の体育などに応用して頂きたい。
それから20日は愛媛で私の講座があるが、まだ余裕があるという事なので、こちらに御都合のつく方は、このホームページの告知板に出ている守氏宛て御問い合わせ頂きたい。
追記:
20日の愛媛での甲野先生の講習会に御出席される方は、恐れ入りますが釣り銭のいらぬよう会費分をあらかじめ用意してお越し頂けますようお願い申し上げます。
守伸二郎
その後、新横浜に出て、“のぞみ”で新大阪へ。ここで“ひかり”に乗りつぎ岡山へ。そして岡山から、この日神戸女学院の光岡氏の講座に出ていた守伸二郎氏と待ち合わせ。特急“しおかぜ”で共に丸亀へ。丸亀のホテルで一泊し、翌日は9時過ぎに守氏の車で松山に向けて出発。愛媛県は、昨年大三島の大山祇神社へ行く時に通っただけだったから、実質的に初めてのようなもの。街並がどこかホッとさせられる。
会場の坊ちゃんスタジアム内の格技場は40人以上の人々で、合気道関係者の方が多かったこともあり、ここで様々な合気道的状況設定で動きを検討したが、私にとって最も発見だったのは、いわゆる立ち技の一般的状況で足裏の垂直離陸を行なうと、受けの腰が浮きやすいこと。講座の後の打ち上げでもいろいろと話に花が咲いた。
泊まりは、今回愛媛での初めての講座ということで、いろいろ気を使って頂いた加賀山氏のお世話で、有名な“道後温泉”近くの大和屋。ここでゆっくり休めたせいか、21日は20日に比べだいぶ体調は良くなっていた。加賀山氏にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。
この21日の朝、昨年暮、東京の“銕(鉄)の会”で初めてお目にかかった、薬師寺や錦帯橋の大修理に用いる和釘を鍛えておられる鍛冶の白鷹幸伯師に許に電話を入れたところ(電話番号は前日寄った喫茶店の電話帳で調べておいた)、「是非来て下さい。お迎えに行きましょうか?」との事。そこで守氏と共に雨の中白鷹師のところへお邪魔する。一度しかお会いしたことがないのだが、来訪を大変喜んで下さり、実際に和釘を鍛えるところを見せて下さった上、更にお土産にと守氏共々我々の名を鏨で彫り込んだ釘を1本ずつ贈って下さり、近所のうどん屋で昼食まで御馳走して下さった。
名残惜しげに送り出して下さる白鷹師の御厚情に感謝しつつ、香川の守氏のお店「いかりや呉服店」に戻って、守夫人と御知り合いの女性を加え、岡山の稽古会へと出発する。岡山に入って高速道路を下りると、光岡氏一行が出迎えていて下さり、日本では滅多に手に入らないというフランスの大量生産ではないチーズの専門店へと案内される。私はなるべく控えるようにしているが、以前この随感録でも書いたように、山羊のチーズなどは大の上に大が付くほど好物だから、店内では気配を消して話を聞いているだけにしておいた。(恐らくお店の人は私があまりチーズ好きではないと思ったに違いない)
岡山での稽古は、松山を上回る人数。しかもさまざまな分野の方々が多く、いろいろな技を行なった。その後はカレー専門店での打ち上げ。ここがまた驚くほど沢山の料理が出て、流石に食べきれず降参する人が続出する。
ここで光岡氏の門下の藤原氏から自作の備前焼の茶碗を頂いたが、かつて感じたことのない暖かさに思わず撫でさすってしまった。
その後、光岡氏宅に移動。貴重なビデオ映像など見せて頂いたが、流石に疲れ果てて珍しく夜明け前にダウンしてして寝る。
そして22日は9時前に光岡宅出て、新大阪入りし、大阪駅で私を待っていて下さった朝日新聞大阪本社の石井晃氏、それから前日の岡山でもいろいろとアシスタントをしてくれた白石英一郎氏と共に一路八尾市のミキハウスへ。この卓球場で大島ミキハウス監督、王会元 龍谷大学監督、それから前日岡山にも来て下さった淡路島の山田先生ご夫妻らに挨拶をして、動きの検討に入る。
今回は2度目ということもあり、藤沼さん、平野さん、樋浦さんといったミキハウスの代表的女子選手にも動きについていくつか提案が出来た。王監督も積極的にいろいろと質問や感想を述べて下さり、実りのある時を過ごすことが出来た。
今回も多くの方々の御好意に支えられて旅を続けたが、守伸二郎氏には最もお世話になった。あらためて感謝の意を表したい。
さて、帰り着いた翌日の23日は、いざNHKの講座用のテキスト書きをと思ったが、様々な所から電話やFAXが来て、ついにこの日は1行も書けなかった。これはちょうど宝島社からのムック本『古武術で蘇るカラダ』がこの日刊行したため、その件の用事が多かったからである。今回の本は、見本本を持って四国・関西をまわったところ、今までのどの本よりも技の解説が分かりやすいとの意見が多かった。そのためか、刊行の翌日である今日2刷決定との事なので、御関心のある方はご購読頂きたい。
その他にも、留守中に問い合わせのあったインタビューやら講演、執筆等の依頼が数件。ありがたいことではあるが、時期が時期だけにお断りしたり保留したり・・。とにかくこれからNHKの講座テキストの執筆に出来るだけ集中したいと思っている。
追記:
宝島ムック「古武術で蘇えるカラダ」は予想以上に出ているようで、すでに売り尽くした書店がいくつもあるらしく、私の所に「どこなら手に入りますか」との問い合せまである状態。しかし私自身もいますぐ版元から買えない状態なので講座などでも当分売ることができそうもない。
ただ現段階では、新宿の南口の高島屋にある紀伊國屋書店が大量に在庫を抱えているとのことなので、早く入手したいという方はここしばらくならこちらへ行かれると入手できるそうである。
しかし、TJムック『古武術で蘇るカラダ』の売れ行きが只事ではないようで、都内の大型書店は売れ切れ続出のようだ。なにしろ自分の本が刊行直後にも関わらず版元から1冊も買えず、どうしても必要な冊数を書店で数十冊も購入などという事は私も初めてだ。ここ数日で「どこに行けば手に入りますか?」という問い合わせを何度となく耳にした。紀伊國屋の各店は平均してまだ6割くらいは在庫を抱えているようなので、おそらく紀伊國屋ならばまだあると思うが、来月になったら紀伊國屋でも在庫ゼロの店が出るかもしれない。2刷は盆明けとの事なので、そうなると郊外のちょっとした書店に残っているのを見つけるしかないだろうが、それも滅多に見つからないという事にもなるかも知れず入手がまず不可能という期間が出来るかもしれない。
そのようなわけで、本来なら必ず献本させて頂く方々にも殆ど今回は献本が出来ていない状態なのである。これを読まれてお心当たりの方々は今しばらくお待ち頂きたい。
しかし、その忙しい中、今日は塙ちと女史から新刊の『男のきもの達人ノート』(ダイヤモンド社刊)が送られてくる。この本のはじめの方に私の事が紹介されているが、そこに古武術の大家と出ていてビックリ。「参ったなあ」と思ったが、その途端に「しょうか」という号を思いつく。ただ「小家」はあまり絵にならないので、「松香」にしようかなどと頭をひねり、その間は何やらホッと自分でもなごむのが分かった。それくらい今抱えているNHKの人間講座のテキスト作りは私にストレスをかけているようだ。スタッフはいい方達だけれど、何しろテレビの講座のテキストなどという、まるでやった事がない事で日限が迫ていて、その上アイディアはいろいろ出て収拾がつかないというのは実に困った事だ。まあ、この程度の事で悩んでいるのだから、大家にはほど遠い。折角思いついた「松香」の号、いつの日かどこかでそっと使ってみようかと1人で思い出し笑いをしながら今これを書いている。
こんなエッセイならカイコが糸を吐き出すようにエンドレスで書けるのだけれど・・。講座のテキストがこのスタイルというわけにもいかないし、本当に困ったものだ。
それから10年ぶり以上であろうか、私の道場の床の間に掛けてある「石光」の揮毫を下さったN女史からお葉書、アメリカのY女史からもお葉書と忙しいとは言っても後回しには出来ないような郵便物が続々と届き、本当にどうしようかと思う。
しかし、まあどれほど私がてんてこ舞いしようと朝が来ないという事はないのだから、何とかなっていく訳だが、私の対応が、遅れに遅れている方々にはお詫びをするしかない。
以上のような状況ですので、私の返事を待たれている方でずっと返事のない方は、誠に申し訳ありませんが今一度御連絡下さい。とにかく全てやりかけ、やりかけで、何かをやりかけた時に或るやりかけた事を思い出して、それをやろうとしたはずみにまた別のやりかけを思い出し、最初は何がどこまでやりかけかを忘れ、それを思い出そうとして別のやりかけの事を思い出す、という事が二乗三乗というのが現状なのです。お察し下さい。従いまして新しい御依頼はよほどの例外でもない限りお受け出来ませんので何卒ご了承下さい。
追記:
宝島の本のせいか、このところ一本歯の朴歯の高下駄の入手に関していろいろと尋ねられる。そこで私がよく知っている良心的な履物屋の一本歯に関するインフォメーションをここに転載しておきたい。この一足5400円という価格は私の知る限り最も良心的価格である。
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大野屋履物店 (福島信一)
〒183-0023 東京都府中市宮町1-3-3 (京王線府中駅南口前)
Tel & FAX 042-366-5356 (年中無休 午前9時より午後7時半まで)