HOME 映像 随感録 活動予定 告知板 著書 掲載記録 技と術理 交遊録 リンク集 お問合せ Twitter メルマガ English
2003年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月

2001年 2005年 2009年 2013年
2002年 2006年 2010年 2014年
2003年 2007年 2011年 2016年
2004年 2008年 2012年

2003年10月1日(水)

 先ほど丸々30時間以上いた光岡英稔師宅を出て、光岡師門下のN氏の車で光岡師、N氏に岡山駅まで見送って頂き、いま今日からスタートした"のぞみ"の自由席でこれを書いている。
 今回はゆっくりと光岡師と対談本の原稿づくりをしようと思ったのだが、話したい事があまりにも多く、また技の話となればすぐに実演して頂き体感させて頂くという事になるから、実感としては半日ぐらいしかいなかったような気分である。
 今年の8月に中国武術近代の名人として何人も称賛を惜しまぬ意拳開祖・王向斎老師の正式な孫弟子となって、その微妙な技法・身法を本格的に学ばれ始めた光岡師の動きとその解説は何度も賛嘆の声をあげざるを得なかった。
 さすがは中国武術に革命を起こしたと謂われる人物が創始しただけの事はあるとあらためて納得した。
 技法を体験して一番驚いたのは、光岡師が基本練法"形体"の中からそれらを組み合わせて工夫されたという「引き手」(別に名前はないので仮にそう呼んでおく)。合気道等でいういわゆる交叉どりの体で、つまり右手で相手の右手の手首辺りを掴むというか引っ掛けてピッと僅かに引く技である。「何やら利きそうだな」と予想はしていたが、実際受けてみてそのあまりに突然な衝撃に鼻の奥がキナ臭い匂いがしたし、一瞬何がどうなったのか判断出来ないほどだった。そして、その詳しい術理の解説を聞き、まさに唸ってしまった。
 数学の方では積分が発明されるのとそれ以前では曲面に囲まれた面積を求める正確さが格段に違ったというが、「手の上げ方も難しいが下げ方はもっと難しい」という事など、すぐれた術理に触れなければ容易に思いつかない。(これをもってしても、脱力・力を抜く・ゆるめるという事を強調することが更なる動きの質の転換を妨げていることは明らかである)
 あらためて光岡英稔という人物が数奇な星のもとに生まれ、負うべきものを背負ったという感を深くした。今後何度か中国に通われ全伝を授けられたら一体どれほどのところまで進まれるだろう。本当に楽しみである。
 それにしても本当に幸いだったと思うのは、私が手探りで工夫してきた術理が言葉の上では光岡師が学ばれている事と実によく符号することである。
 この事は例えば私が最も愛読している『願立剣術物語』に対して、「これは意拳の教科書の一種かと思ったほどですねぇ」と言う光岡師の言葉からも裏づけられると思う。
 私はあくまでも日本の武術の探究という立場を捨てるつもりはないから、本格的に意拳を学ぶことはないと思うが、今後その術理と身法から多大なものを学ばせて頂くことになると思う。このような立場で意拳を学ばせていただくことを認めて下さっている光岡師ならびに光岡師を通して私に友好の漢詩を贈って下さった韓競辰先生にはこの場を借りて深く感謝の意を表したい。

 夕方4時半、東京駅に着く予定だが、今日もそこにはNHKの「人間講座」の撮影についての諸々の打ち合わせのため待っている人がいる。そして家に帰ればいくつものFAXや手紙が待っていることだろう。
 明日は稽古に来る人がいて、夕方からは都内で稽古。明後日の3日と次の4日はNHKの「人間講座」の撮影。そういえば8日から始まるこの講座の予告映像がもう流れ始めていて、岡山でこれを見た時何だか少し追いつめられた気がした。
 ただ、これによって何らかのヒントを得られ、本格的な研究を始めて深い身体操法の術理を得られる若い人が出る可能性もない事はないように思えるので、これはこれで意味があるのかも知れない。
 この講座のテキストはすでに全国の書店で発売されていると思うので、御関心のある方はお求め頂きたい。

以上1日分/掲載日 平成15年10月2日(木)

2003年10月5日(日)

 3日、4日と続いたNHKの人間講座の撮りも終え、今日は実に4ヶ月ぶりに日曜日に家に居る。撮影では多くの方々の御協力を得たが、特に仙台の藤田氏と筑波の高橋氏には受けでお世話になった。ここにあらためて感謝の意を表わしたい。
 それにしてもNHKの講座は、これによって又どれほどの方々との縁が出来るか見当もつかないだけに、撮り終えてホッとしたというより、一層重くなった感もある。
 元々、人見知りで群れて何かするという事が大の苦手であっただけに、組織ともいえない組織とはいえ、一応会を作って四分の一世紀も経ったということが我ながら信じられないほどである。
 撮影で20人にも満たないながら、様々なジャンルや年齢のオーディエンスの人々を前に話しをしても、聴いている人の顔を見ると、ついそれに影響されそうで、殆どずっと下を向いたまま話していた。なにしろつまらなそうな顔をされていれば話す気がなくなるし、思い入れをもって深くうなづかれていたら、ありがたい気もするが、私自身自分の力量はイヤというほど分かっているので過剰な期待にはとても応えられないし、それを思うと本当に気持ちが引けてくるからである。
 さまざまなタイプの人間が、その人なりの善悪美醜の価値判断や人との間合いの取り方、対応の仕方を行ないながら生きているが、そうした人々の何気ない言葉や挨拶、ちょっとした表情から、何故か最近その人が内側に抱えているものが流れ出してくるのを感じて、そうした個々の人たちとどう対応したらいいのか考えさせられる事が多い。
 この撮影ではそれが特に顕著で、まるで私の畏友名越康文・名越クリニック院長が深く関わっている、最近評判の漫画『ホムンクルス』(『週刊ビッグコミックスピリッツ』)の主人公・名越(主人公にサラッと名越院長の名を使うところは山本英夫という漫画家もタダモノではない)が体験する世界とまでは勿論言わないが、何だか印象としてはダブってきて、フト自分の立ち位置が分からなくなってきたりする。

 武術稽古研究会を名乗って、考えてみれば今年の10月でちょうど25年。フト25周年をやる代わりに全部解体して、また一から始めようかなどという気持ちもしてくる。つまり、長年の会員の人にも全員卒業してもらって(既にもう卒業状態の人も多いので)、後は一期一会のつもりで、いろいろな事を引きずらず、ただ縁のあった人が私の動きを参考にして各自がそれぞれの道を歩む、そういう会にしたい。(会というより私個人との関係というべきか)
 とにかく武術稽古研究会の会員、松聲館というカラーなどなく、自由に考え、自由に発想してほしいと思い、そういうふうに作ってきたはずなのだが、それが段々とある種の縛りが出来てきて、私もそれを仕方なく容認してきたようなところがあるが、ここにきて元々会としての縛りを可能な限り排除して会をつくった原点に戻ってみようかと思う。具体的にその為にどういう行動をとるか、今はまだ何も思いつかないが、レイチェル・カーソンの最後の著書『センス・オブ・ワンダー』を読んで、寄せては返す波や様々に変化する雲が、その時々の地球の働きの諸要素をそのまま表現しているように、自分自身の気配と色を極力消して、その奥にあるものと向き合い、そこから出てくるものに従って、これからの行動を決めていきたいと考えている。
 それにしても私自身、政治家とか大会社の社長などには凡そ向かない性格だとあらためて再認識させられた。

 このような次第ですから、私に関心を持たれている方、持たれ始めている方は、過剰な期待を持たずに片目でチラッと見るぐらいにしておいて頂きたいと思います。

以上1日分/掲載日 平成15年10月6日(月)

2003年10月8日(水)

 昨日の夕方、PHPの編集者の大久保、太田の両氏との打合せのため、自宅近くのレストランへ行く途中、柔道着姿の子供が2人迎えに来たらしい母親の車に乗る姿がフト眼に入り、「あれ、この近くでどこか柔道を教えている所があるのか」と思ったのと同時に、「ああ、昔は自分もこの世界に関わっていたんだな」という思いが交錯し、我ながら、一瞬息が止まるほど驚いた。
 そして、「そうか、もう私の気持ちの中では武術稽古研究会を廃めたという過去形で、完全にこの事に関しては心の底で決断していたのだなぁ」とあらためて思い知らされた。
 そういえば、昨日は寝ついたのが朝方5時近くで、10時頃目が覚めた時、「何か昨日、気になることがあったけれど何だったかな?」と、しばらく武術稽古研究会を廃めようと考えていた事を思い出さなかった位だから、既に迷いはなくハッキリと私の中で結論は出ていたのだと思う。
 理由は、金魚鉢も長く水をそのまま置いておくと藻が生えてきて見通しが悪くなる。ただ藻は藻でそれなりの理由で生えてきたのだし、それはそれで微妙な生態系を保っているのだが、この金魚鉢に新しく興味をもって、中の金魚を見たいという人には、藻が生えていると見にくいので金魚を新しい金魚鉢に入れるしかない、ということである。しかし、藻の生えている金魚鉢の方により適応している金魚まで移し替える事はないので、最初にいたこの金魚鉢を出る決心をした一匹だけが出よう、という事である。
 そして、この次に用意している金魚鉢は、藻が生えることがないように、ある特定の環境を保たせないようにしようと考えている。つまり、"武術"という枠に入れず、私が研究してきた動きと考え方を、より多くのジャンルの人に様々な形で提供したいという事である。
 私がこのような考えを持つに至った大きなキッカケのひとつは、その書名はずっと以前から知っていたが、ごく最近まで直接目にする機会がなかったレイチェル・カーソン女史の遺作ともいえる『センス・オブ・ワンダー』を読んだ事だと思う。歴史を変えた1冊といわれた『沈黙の春』の著者が、それを書かずにはいれらなかった自然への賛美と憧憬を身体じゅうから溢れさせて書いた本書は、その題名通り「美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を瞠る感性」を育むことの大切さを説いたごく短い、なにしろ写真や解説を別にすれば四六版で40ページにも満たない(余白をつめれば30ページ足らずになると思う)本であるが、そこには私自身が広葉樹林の中にいて、そこの自然の息吹と向き合った時の感動を思い起こさせるものと同質の何かがあったのである。
 6年前、映画『もののけ姫』で人間と自然との関わりに絶望的衝撃を受けて、完全な立ち直りはこの先ずっと不可能だと思っていたが、それはそれとして今も遺っている自然と向き合い、その感動に心を動かされるような人間が少しでも増えるような方向へ力を貸したいという思いが、今までになく強くなったのである。
 そうした私の思いを更に後押ししたのは、4日のNHKのスタジオ収録の際、オーディエンスとして来て頂いたS先生からの感想文である。S先生は、日本でエイズが騒がれる以前からこれと取り組まれている研究者で、生体防御機構学を専門とされているようだが、私の技を直接体験され、「今までの経験による知識がフッ飛んでしまい、狼狽し、混乱し、オーバーに言えば発狂しそうで、楽しくもあり、辛くもあります。大変な衝撃を受けました」との事。そして、「今まで全く武術をやってみようなどと思った事もありませんし、闘うとか強くなるとか思ってもいませんが、せめてあの感覚の技が一つでも自分で出来るようになってみたい。そうした事が出来るようになって物事がどんなふうに見えるようになるか味わってみたいのです。あの世界を無視出来れば、又は頭から否定出来れば、その方が精神的に楽かもしれません。でも体験してしまいましたから・・。(以上、S先生の感想文の抜粋の要約)」等々、長年研究者として大学で研究されてきた方とは思えないような瑞々しい御礼状を頂き恐縮すると同時に、こうした、それこそ「センス・オブ・ワンダー」を持たれている方々(現代の日本では決して多いとは思えないが)に、何か新しい世界を見つけるキッカケを提供出来たらと思い、私が対社会的に活動する場合、私が講師として招かれる時、頭に『武術』がついていると、その事で構えてしまったり敬遠してしまったりする方があるように思えたので、25年間使ってきた『武術稽古研究会』の名称を私自身の思い出の蔵に納め、新しく身体を使った技の研究という事で出発しようと思うようになったのである。
 もちろん、そこでは今までのような武術的な稽古もするだろうが、場所と用具があれば、鉈で木の枝をどう捌いて薪や焚付けを作るか、あるいは槌と火箸(ヤットコ)を使って鍛冶はどうやって鉄を叩いて造形しているのか、といった事など、人間として本来最も基本的な生活技術の実演や講習なども行ない、ナマ身ひとつで自然と向きあえるだけの基本技術を学んでもらう事なども考えている。
 そうする事によって、恐らく私にとって武術が何であるかが今まで以上に明らかになってくると思う。

 まさか、このような決心をするとは数日前まで全く考えていなかったが、まるでこの事が私の人生の脚本として書いてあったとしか思えないほど日時の経過と共に、その時々に応じての考えが浮かび、気持ちが整理されてゆく。
 今後、具体的にどのような形態で私が活動してゆくかは、まだ殆ど決まっていないが、それも自然の流れで決まってくるように思う。

 もちろん、既に日時の決定した東北や関西、名古屋、長野での講座は予定通り行なうつもりです。

以上1日分/掲載日 平成15年10月8日(水)

2003年10月9日(木)

 NHK教育テレビの「人間講座」が始まった。私は放映時間の何倍かの量カメラの前に立ち、その撮影されたテープの中から編集して番組となったので、どう編集されたかは私自身分からなかった。そのため思いがけぬ間違いもあるのではないかと内心些か危惧していたのだが、その危惧が番組が始まってまもなくあった。
 俳優の佐藤慶氏のナレーションの中に、「甲野さんが居合の技を蘇らせたのです」などというそら恐ろしい言葉があった。ナレーション原稿も一応目を通して校正したのだが、時間の関係で字数に限りがあって多少変える事があります、との事だった。多少なら大丈夫だろうと思ったのだが、武術にあまり詳しくない人は何とも背筋の凍るような間違いをするものだ。この部分を正確に言い直せば、「甲野さんは、居合の原点に戻った探究を始めたのです」となる。
 この分では今後も背筋の冷たくなる間違いがありそうだが、本の校正ミスと同様の間違いと思って頂きたい。

 それにしても、私の紹介に"武術家"と出ていて、この先この肩書きはどうなるのか、と他人事のように見ていたが、どうなるではなく、どうするという事なのだとあらためて考えた。
 今まで「武術家」か「武術研究家」だったが、別に私がそのどちらかを指定した訳ではない。取材する側の好みと都合でどちらかに決めていたのだが、今後はどうしたらいいだろう。
 かつて私と親交があった梶川泰司氏の師にあたるバックミンスター・フラー博士は、建築家で数学者で物理学者で哲学者で教育者で詩人・・・という事で20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれてた人だが、まあどれか1つしか書くスペースがなかったら建築家と紹介してあったので、武術稽古研究会は解散しても私個人の紹介は従来通りでいいのかも知れない。それとも何か別の名称がいいのか、これも成り行きに任せようと思う。ついでに書いておくが、これからの私の紹介は次のようなものになると思う。
 「各種武術をはじめ、日本人の生活の基盤となっていた身体を使う諸技術の研究」・・何だか野口裕之先生の身体教育研究所の活動に少し近づいてきたような気もする!?

以上1日分/掲載日 平成15年10月9日(木)

2003年10月10日(金)

 武術稽古研究会の解散を決めてから、日々、そして時々刻々気持ちが変化してきているが、昨日、長年の知友の一人からFAXで送られてきた世界的な覚者として著名であったクリシュナムルティが『星の教団』を解散した時の宣言文を読んでいるうち、私の背中にも翼が生えたような解放感を覚えた。
 もちろん、世紀の覚者と我が身を引き比べるなど象と穀象虫を比べるような身の程知らずなことだが、『星の教団』の解散宣言にある、

 <真理>は限りないものであり、無制約的なものであり、いかなる道によっても近づきえないものなのであって、したがってそれは組織化され得ないものなのである。それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、あるいは強制するようないかなる組織も形成されるべきではないのである。諸君がまず最初にこのことを理解されるならば、あるひとつの信念を組織化することがいかに不可能なことであるか、おわかりになることでしょう。信念は純粋に個人的な事柄であり、それゆえ組織化したりすることはできないし、またすべきでもないのである。ひとたび組織化したならば、信念は血の通わない凝り固まったものになってしまうであろう・・・・(「クリシュナムルティの瞑想録」 J・クリシュナムルティ著 大野純一訳 平河出版社 からの引用)

は、読み返す度に後頭部から尾骨に電気が迅って(はしって)ゆくような感動がある。

 昨日までは、決心したとはいっても、いろいろ引きずっていたし、私が表紙となった本日10日刊行の『中央公論』誌のグラビアに私のプロフィルとして武術稽古研究会が載っていたのを見た時は後ろ髪を引かれる思いだったが、ここに至ってもはやそうしたことも遥か昔のことになりつつある。
 もちろん現実に多くの方々からの関心に応えるには事務的手続き上もある程度の組織的形態は必要なことだろうし、C.W.ニコル氏が主宰されているアファンの森財団のように失われゆく日本の森を守り育てるには一人の力ではどうなるものでもなく、団結し組織化しなければならないだろう。ただ、組織化はある目的のため、極めて要求度の高い必然性を持っていなければならず、型によって動きの指導をする場合も、その動きを伝え、その人の能力の開花に手を貸す以上の押しつけは、それが僅かであっても濁りとなっていく。もちろん生身の人間でそれをなし得るのは至難だが、そうであればこそ一層そのことを自戒し、水が濁らぬようにしなければならない。
 「正直をたてる」とは、『願立剣術物語』で度々説いているところだが、同時に同書では「正直はたちがたいものだ」と述べている。また、同書で説くように、こころのこだわりは氷であり、それを溶かし五体よく流通して無病の元の身となること、これは単に身体の動きを学ぶだけでは近づくことも不可能で、同じくこの『願立剣術物語』に説くように、「心の釣り合いをもって身の釣り合いを勘ずべきこと」なのであろう。
 会を解体して心の自由度は増したが、我が身個人の行はこれからいっそう厳しくなっていきそうである。

以上1日分/掲載日 平成15年10月11日(土)

2003年10月11日(土)

 2003年10月10日、日本最後の朱鷺(トキ)が死に、この地球上からニッポニア・ニッポンの学名を持つ国際保護鳥が消えたニュースは、既に十二分に予測されていた事とはいえ、重苦しさと哀惜さが入り混じった何ともいえぬ思いを私にもたらした。
 朱鷺は、私が子供の頃すでに絶滅が危惧され、さまざまな対策がとられたようだが、ある数以下に減った野生動物の個体数の回復はきわめて難しいようだ。鳥類や哺乳類に限らず、世界中で毎日いくつもの種が絶滅しているというが、美しい羽色を持った鳥の絶滅はやはり衝撃の度合が違う。
 鳥類の絶滅で最も劇的な例は、もう今から90年近く前の1914年9月1日、シンシナティ動物園で地上最後のリョコウバトが死んだ事であろう。その100年ほど前、アメリカ大陸には空が暗くなるほど(数十億羽といわれている)リョコウバトがいたようだが、凄まじい乱獲によって僅か60〜70年の間にその姿は急速に減り、ついに絶滅したのである。
 「いつまでもあると思うな親と金」というが、リョコウバトの絶滅はそれが余りにも沢山いたため、人間は図に乗って面白半分に撃ちまくったようである。獲った鳥は人間が食べきれず豚の餌にされたという。
 このような種の絶滅に比べれば、会や組など組織の廃絶は遥かに軽いことだ。ましてやその事で多くの人が何か考えることが出来れば、そうしたことは歓迎すべき場合もあると思う。今回私が武術稽古研究会を解散したことで、自分に責任があるのではないかと自分を責めている方もあるらしいが、そういう考えを持って頂いた事(つまり自分を省みる気持ち)は大変貴重だと思うが、私自身今回の決断で一歩自分の中へ入ることが出来る可能性が出てきたのだから、全ての縁は私にとって必要なことだと思っている。
 自らを省みることは大切だが、そのことで自分自身を過度に責められる必要は全くない。自らを省みつつ、同時に「それにしても先生も勝手だよなあ」と思って下さる位がちょうど良い心の釣り合いではないだろうか。

以上1日分/掲載日 平成15年10月13日(月)

2003年10月13日(月)

 夜明け前からポツポツ降り出した雨は、午後になって凄まじい雨音である。私の道場は空間を広くとるため天井を設けていないので、強い雨が降ると人との話にも苦労するほどの雨音となる。
 昨日の千代田の会は、武術稽古研究会の解散を決めてから初めてのものとなったが、今までの内容に比べそれほど変わったという感じはなかったが、人数の関係もあり、稽古会というよりは文字通り術理を実演を交えて説明する会となった。
 私自身得るところがあったのは、この会で私が「平蜘蛛返し(ひらくもがえし)」と名づけた四つん這い姿勢の人間を亀を引っくり返すようにして返す技である。これは先月医師の卵の白石氏から、レスリングのクォーターポジションに対して試みられてはと勧められ、岡山で試み始めたものを進展させ、両足の裏の垂直離陸を使いながら、ひっくり返されまいとして手足を四方へ伸ばしている相手を引っくり返すものである。昨日は10人ほどに試みたが、一人の例外もなく返せた。相手となった人の中には体重が私より20〜30キロぐらい重い人もいたから、まあそれなりに技として名を付ける程度の価値は出てきたように思う。

 しかし、“武術”ということを特に意識しなくなったせいか、同じく体を使う異分野、つまりダンスとか振り付けといったジャンルからの接近度が増してきたような感じがする。昨日も終わった後、今回の会に参加されていたダンサーで振付家の山田うん女史から、来月行なわれる同女史のワークショップでの講演というかデモンストレーションを私にして欲しいという依頼の確認があった。
 そう言えば、来月はかのピナ・バウシュ女史と同女史が率いるヴッパタール舞踊団へのワークショップの依頼もあった月である。このような身体表現芸術は、その使い手というか踊り手の意識によっていくらでも甘くもなるが、逆に厳しくしていったら生半可な武術より遥かに厳しくなるだろう。こうした人々との交流で、私自身新たな啓発が得られれば、それは大変ありがたいことだと思っている。

*業務連絡

 今週および来週、来月にかけて、私の所に取材、対談その他で、既に約束をされている方は申し訳ありませんが、あらためて確認の電話を入れて下さるようお願い申し上げます。先週はNHKの「人間講座」の1回目の放映と会の解散に伴う様々なことに忙殺されておりましたので、万が一にも予定が重なっていると一層ご迷惑をおかけしてしまいますので・・。
 又、私に何か依頼をFAXかホームページ管理人経由で入れられ、その後ご連絡のない方で、もし今でもその企画意志をお持ちの方も御連絡下さい。現在予定が非常に込み合っておりまして、お電話等で直接私とコンタクトを取られた方以外の対応は到底不可能な状態となっております。
 誠に申し訳ありませんが、稽古、研究、広報、渉外、片づけ、執筆等ほとんど私一人で行なっておりますので、既に個人の処理能力では完全に対応出来なくなってきており、急いで出すべき手紙が5日も6日も出せぬまま、という状況です。したがって仕事はご依頼の方の熱意や企画に対する私の関心の程度によって決めるというより決まってゆく、といった有様です。
 御依頼下さる方は、どうかその辺りの事情を御察し頂けますようお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成15年10月13日(月)

2003年10月14日(火)

 本当に私には、私を守っているのか、コキ使っているのか分からない何者かがついているとしか思えないほど、私の人生は予定通りに事が運びにくい。
 昨日は1日じゅう家に居て、今更やっても"焼け石に水"とは言え、溜まりに溜まっている予定の整理や手紙書きを少しでも減らそうと思っていたのに、起きた時から頭が終日重くてなかなかヤル気が起きず、電話やFAXの合間には、ついつい剣術の伝書などを読んでしまう。
 肩も凝るし、ひどくはないが頭痛もある。一体この原因は何だろうと記憶を辿ってみると、どうやら土曜、日曜と連続で稽古した折、試した介護の新技法"病人立たせ"のようだ。これは寝ていた要介護人を半身起き上がらせた後、一気に立たせる方法で、居合の趺踞からの抜刀の時の体の応用なのだが、腰を瞬間的に使う相当難度の高い技で、ちょっとタイミングを狂わせると介護者に相当な負担がかかる。それを希望者に次々と行なったため、さすがに体にこたえたのだろう。
 それで昨日は終日ハッキリしなかったのだが、もう寝ようという午前2時近くになって、何気なく打剣に最近の膝を前に屈しない立ち方で工夫を行なったところ、突然身体運用上少なからぬ気づきがあり、そこから眠気や頭痛を吹き飛ばす勢いで本格的に稽古を始めてしまったのである。まあ、よかったと言えばよかったが、これで又々予定が狂った。何しろ2時に寝る予定が寝ついたのは結局4時半になって、11時近くまで寝てしまったから・・。

 しかし、これを書いていて本当にこの頃記憶がとんでしまっていることに気づく。11日は稽古後、二子玉川へ出て整体協会身体教育研究所へ行った事をコロッと忘れていた。例によって大阪の名越康文氏と一緒だったが、この日は珍しく植島啓司先生も同行。他に大学で哲学を教えられているY女史。
 身体教育研究所に近づくと、公開講話が終わったらしく、それとおぼしき人達とすれ違うが、その人達の中のかなりの人が我々に会釈をしてゆく。野口先生にとっていい事なのかどうか分からないが、いつの間にかこの公開講話に出席されている方の何割かは、私の本や話からこの公開講話の事を知った人達のようで、人に影響を与えることの怖さに何だかちょっと身が縮む思いだった。
 整体協会の別館に着くと、例によって3階の定番の席に野口裕之先生。野口先生は植島先生を認められると全身に喜びが現れているのがハッキリ分かるほど喜ばれ、植島先生とY女史が終電車の時刻が迫ったため腰を上げられるまでの約3時間は全く話が途切れる事がなかった。
 この日は私も特別のご好意で体を観て頂き、我々より遅れてこの会に駆けつけた岩渕氏と共に我々3人が辞去したのは、私が帰りのタクシーの中で午前3時の時報を聞いたほどだから、ちょっと記録的な時間となってしまった。
 この会の事を私がコロッと忘れていたのは、先代の野口晴哉先生が「胃が健康であるというのは胃の存在を忘れていることだ」との名言を残されているのと同じで、あまりに快く自然な空間であったため、私の中で記憶がとんでいたのだろう。とにかく時間がザルに注いだ水のように消えていく昨今の私にとって、そうした時間を気にせず、野口、植島、名越、岩渕といったそれぞれ他にかけがえのない知的センスと感覚を持った人達と席を同じく出来るという事は、本当にありがたいことである。やはり会というのは自然発生的できまりごとが少なければ少ないほど身体にいいようである。
 「人は何々のために生きているのではない。生きる為に生きているのだ。」というのは野口晴哉先生の名言のなかでも特に有名な言葉だが、一見無目的な、集まることに意味がある会というのは、その構成メンバーによって時にかけがえのない価値あるものとなるようだ。

以上1日分/掲載日 平成15年10月14日(火)

2003年10月17日(金)

 「忙しい」とは心を亡くすと書くと言うが、昨夜、最後の恵比寿の稽古会の後、ホームで反対側の電車に乗る人たちと別れて、数人で外回りの山手線に乗った直後、同行のO氏に話しかけた瞬間、まだホームに残って我々を見送ってくれている人達の存在を完全に忘れていた。「先生、みんな挨拶していますよ」と注意され、慌てて振り返ったのだが、この時「とうとうここまで忙しさもきてしまったのか」と思った。
 とにかく、起きていたら稽古や執筆に集中している時間以外の殆どの時間、「え〜と、あれをやって、これをやって・・」と山積みしている予定の調整が常に頭の中をかけまわっている。何しろ一昨日、インタビューと打ち合わせと2件合わせて7人の方々が見えられたが、その最中でもしばしば他の用件が頭をかすめた。その上、昨日は行きも帰りも通りすがりの未知の人から「ファンなんです」と握手を求められたり、挨拶されたりして、「これはもうテレビなどへの出演は、もう決まっているNHKのもの以外は今後できるだけ出るのは止めておこう」と思った。とにかく今は様々なことがゆらぎ、今後何がどうなるのか未知数の状態だ。
 昨日、武術稽古研究会の解散を宣言して最後となった恵比寿稽古会も、着替えていてこれが最後という実感がまるでない。ただ、武術に拘らず、体の使い方の研究という事に気持ちが向いたせいか、妙な話だが結果として体内観察が以前以上に行き届いている感じがして、何人もの人から私の表情がのびのびしていると言われた。
 それにしても恵比寿の稽古も気づけば9年も続いたのである。手伝って下さった方々、なかでも中島章夫氏には心から御礼を申し上げたい。
 今後はテレビに出るよりも、より多くの身体の動きに関心のある方々の御参考になるような活動をしてゆきたいと思う。武術に特に関心のある方は、実技においても人間的にも大変信頼できる光岡英稔師が益々技を磨かれているし、他にも中国の優れた武術家の方とも親しくさせて頂いているので、御縁があると思われる方には御紹介したいと思っている。
 また、予てから私は対応性のある体づくりのために、一本歯の下駄を勧めているが、この一本歯の下駄よりも転倒の危険性が遥かに低く、多用な使い方が出来る「バランス下駄」が、私のホームページとリンクしている山形県米沢市の『マルミツ』で販売が始まったので、御紹介しておきたいと思う。「いきなり一本歯は怖い」という方、一本歯の下駄とは違ったバランス感覚も味わいたいという方は、この普通の一本歯とは違って歯の取り付け場所が変えられる、このバランス下駄との出会いが思いがけぬ身体機能の目覚めに繋がるかも知れない。

以上1日分/掲載日 平成15年10月18日(土)

2003年10月19日(日)

 今日は終日家にいた。先週の日曜日は4ヶ月ぶりぐらいに在宅していたが、2週続けて日曜日家にいたのは、恐らく今年2月に体調を崩して半月休業して以来だろう。しかし、道場の25年ぶりの塗装と腐った板の張り替えで、懇意の大工の高田氏が来ていたり、『剣の精神誌』の続刊の相談で水谷・宇田川の両氏が来て資料の検討を行なったりした後、吉田氏らとの稽古。そんなこんなでロクに食事する暇もなく、気づけば夜の11時。
 それでも昨日のハードさに比べればまだマシである。昨日はNHK「人間講座」の最後の撮りで、午後1時前から人が来ていて、その後稽古やら何やらで人が出たり入ったり計25人以上。全てが終わったのが12時。半日もの間に目的が違う人達の出入りがあれほどいろいろあったのは初めてだろう。
 とにかくやる事があまりにも多すぎるのだ。以前なら考えられないが、返事を待っていた人から来た手紙を受け取っていながら、読むのをまる1日以上忘れていたりする。
 日曜の今日も、とあるテレビ局から依頼の電話。依頼の件は断ったが、けっこう話せる人で、それでついつい20分は話してしまった。とにかく集中豪雨で河川が氾濫しているのと同じ状態が2ヶ月以上続いていて、どこもここも物や書類だらけである。今の私の最も切なる願いは「片づけをしたい」。一にも二にもこれだ。
 18日は撮影で無理やり道場を占拠していた荷物を撤去したが、これが又古巣に戻らぬように(元々そこは巣ではないのだから)処分するなり整理して何としてでも空間を広げたい。そのため全てを止めて整理に没頭したいのだが、今週なかばからの東北行き、そして次の関西行きの荷物づくりもある。それに稽古をしだすと、これまた全てを忘れて没頭してしまう。
 今日は最近命名した、例の「平蜘蛛返し」の有効さが、S氏相手に更に確かめられたのと、対突きの小手返しの動きの掌の向きに気づきがあった。それから、S氏との太刀取りの稽古でS氏の上達に驚く。私の下段からの剣の突きは、今まで誰も素手で対応しきる者はいなかったのに、うっかりすると取られそうになる。現代のような真剣を使う事などまずない時代、太刀取りは木刀想定が現実的だが、木刀の場合は真剣ではないのだから極度の興奮状態で痛覚がマヒしている者に対して上段や中段では踏み込まれて持たれたり、払われたりして包丁などで刺される事が往々にしてあり、そのため私は下段から一気に突くのがいいと提唱し、今まで1度も下段からの木刀の突きを取られそうになった事はないが、S氏は何ともいえぬ間の詰め方で入ってくる。「いやいや先生に手加減して頂いているだけで入ってますよ」とS氏は言うが、いつものように十分の余裕では入れない。そして、いろいろやっている内、下段よりもある種の古流に見られるような右の肩口に木刀の物打ち辺りをピタリとつけて入ってゆくと(つまり打剣の直打法で打たれる剣の軌跡のようにして突きを入れると)、これが一番有効だった。
 しかし、S氏の動きを見ていて、実際に木刀をさまざまな方向から、あるいは途中から変化してゆくようにして打ち込んでいっても、何とか捌くという事は出来ないことではないのだという希望が今までで一番実感をもって感じることが出来た。

 明後日21日は雑誌の対談で噂に高い講談社の"野間道場"に行く予定。最近は時間がないので、本来の対談以外の打合せや取材希望の他社のスタッフ2組プラス見学希望者も同席ということになりそうだ。

 都内での恵比寿稽古会がなくなりましたので、私の動きに直に接したいという方は、第2金曜日の夕方6時30分からの池袋コミュニティカレッジか、千代田武術研究会の術理説明会(来月は23日の予定)、あるいは今月25,26日仙台で行なわれる会、来月1日岡山での会、3日の名古屋での会、8日9日と長野で行なわれる会などに御参加下さい。この中でも長野での会は、まだ比較的空いているようです。(詳しくは告知板に出ています)
 この他、11月20日は13時から龍谷大学で公開シンポジウムがあります。
 恵比寿に代わって私の動きを見学あるいは体験して頂く場は現在準備中です。決まりましたら改めてお知らせ致します。

以上1日分/掲載日 平成15年10月20日(月)

2003年10月21日(火)

 今日はハードな1日だったが、何だか妙なところにスイッチが入ってしまったせいか、今日1日で本1冊分くらい喋った上に身体もけっこう動かしたが、その一連の予定、10時半頃から6時半までの3件のハシゴの後も、もう数時間しゃべって動けるほどの体の状態に我ながら訳が分からない。
 何しろ東北行きの荷物づくりに今朝4時半までかけ、7時半に起きて諸用をし、10時頃家を出てO師が主宰するブラジリアン柔術の道場に寄り、ここに1時間10分ほどいてから護国寺の講談社へ。途中M女史らと合流、講談社ではNHKの担当者と合流し、雑誌『ウォーキング』のT女史の案内で野間道場へ。
 噂には聞いていたが、戦前の雰囲気そのままの野間道場は、床が僅かにカマボコ型でバネが利いており独特の感触。剣道の道場としては"日本一"と呼ぶ人がいるのも十分頷ける。この野間道場が維持できるのも講談社という日本最大の出版社の施設だからであろう。剣道に直接縁のない私だが、この道場はこの先もずっと在り続けていて欲しいと心から思った。
 今回対談させて頂いたのは、御茶ノ水大学名誉教授で比較舞踏学の森下はるみ先生。森下先生とは、野間道場という場の雰囲気の良さに、司会進行のT女史の感覚の良さも加わったためか大変話が弾み、約3時間話が途切れることがなかった。僅か4ページの企画というのに本半冊ほどの分量を喋り、また実演と解説をさせて頂いた。とにかく森下先生は大変素敵な方で、何だか対談でまた1冊という事にもなりそうだ。
 その後は、この対談にずっと立ち合っていたNHKの某番組スタッフの方々と近くの喫茶店で打ち合わせ。自分でもおかしいと思うほど次々と舌が動いて止まらず、予定の倍以上の時間しゃべり続けた。

 今日は朝出る前にカキ1個と大さじで1杯ほどの雑穀飯だったが、なぜか異常に身体も舌も動いた。多分睡眠不足がある種のハイ状態を生んだのだろう。帰宅すると結城のA翁から手紙。A翁は今から約50年前、瀧野川の国井道場に短期間通って、国井道之師範に私の母流儀ともいえる鹿島神流を学ばれたという方。出版社を通して私に手紙を下さった方である。今回は今も蔵されているという国井先生からの書簡のコピーと、当時の日記を書き写して送って下さった。この御手紙とコピーを読んで不思議な暗合に思わず膝を打ったが、何と私が今日対談した野間道場のホープともいうべき「野間恒氏と国井先生が立ち合い・・・」という話があったのである。
 その他、A翁が国井道場に来ていた客人の1人と帰り道一緒になった時、「『全く先生にかかったら剣道の7段8段が子供の扱いだからなあ・・』と感に堪えないように述懐したのを覚えております」などといった事を書き送って下さった。このA翁の他にも、かつて国井先生に教えを受けたという栃木県在住の方から連絡を頂いた事もあり、さすがに名横綱双葉山も現実に手を合わせて感服していたという国井師範なだけに、その凄まじい技については今も所々に当時を知る方がおられるようだ。
 この国井先生の代わりなど無論私には務まるべくもないが、私程度の技であっても関心をもって交流を望まれる方がおられるので、私に出来るだけの動きはお見せして参考にして頂きたいと思っている。
 そういう意味では、今日ブラジリアン柔術では国内トップクラスの実力者というO師の所で、O師も含め数名の門下の方々に私の動きを体験して頂いたのは私にとっても有意義だった。というのも、ここで「タックル返し」「平蜘蛛返し」「直入身」などの有効さを確認出来たからである。しかし、非常に研究熱心な方々のようだったから、きっといろいろ対応法を研究されることだろう。
 ただ、終わって最寄の駅までO師に送って頂く道すがら、私が会を解散し、いわば身ひとつの一匹狼となったことの有難さ、特典を実感した。どういう事かといえば、O師の門下の方で私の技を受け、私にまた技をかけて欲しい、その原理を学びたいという方が出た時、他流を学ぶという事はある種の気がねや遠慮を伴うものだが、私がもう流儀も会も背負っていないから、その辺りがずっと楽だろうという事である。つまり、あまり上手い説明になっていないかも知れないが、私自身、私がある種「自然現象化」しているような感じがするのである。つまり、私の動きが「崩れ落ちる土砂、風に舞う鳥、はぜて飛ぶ木の実等々」と同じく、私と対する人が私に教わるというより、私の動きを見て説明を聞いて気づきを得るという具合になってくるのではないかという事である。
 以前も言葉にすれば同じような事を考えていたように思うが、私のなかに会という特別な環境、組織をつくって教えるという意識がかなり濃厚にあったのだろう。もちろん今もまだ残っているとは思う。(例えば、私の動きによって気づきを得ても、まるで全て自分で発見したように発表する人がいたら、やはり私も不快に思うだろうから)ただ、以前に比べればカナダ極北の先住民族カショーコディオ(ヘアーインデアン)の社会習慣のように、教える、教わる、学ぶ、習う、という意識はぐっと減っていると思う。O師の道場を出て道を歩きつつ、その事は実感としてこみ上げてきたのだから。
 今、これを書いていてフト思い出したが、整体協会の創設者野口晴哉先生が『月刊全生』昭和47年12月号に書かれた文章を思い出した。これは『古武術からの発想』文庫版223ページに書いてあるが、ここであらためて引用してみたい。

 人間は自由を強く欲求しています。それは不自由さが裡に潜んでいるからであります。時に信念や義務といったものが、時には体の記憶が、自由への障碍となっています。多くの人達は自由ということを頭の問題として扱っています。私は戦時中特高警察に随分苛められました。しかしその度に私は"俺は自由だ"と言い張り、事実自由な立場を堅持し続けました。俺は自由だということが一つの信念にもなっていました。ところが終戦になり、ラジオで特高警察解体のニュースが流れた時、私は貴重な体験をしました。肩の力が急に抜け深く息が出来るのです。"おや俺は今までこんなに気張っていたのかな"と思いました。深い息が出来ると、焼け跡が急に明るくなったのです。そして何か体の奥深くからフッフッと新しい力が湧いてくるのです。以来私は自由というものは体で感じるものだと考えるようになりました。そして全ての人がこの深い息を体験し、自分の裡から湧き出てくる新鮮な力を自覚することを希うようになりました。深い息を妨げるもの、それがどんなに立派な信念であろうと、義務であろうと、意志であろうと、それ等は正しくないと簡単に結論を出しています。そして私は深い息を可能にする為に潜在意識教育や整体操法を用います。これが整体指導というものなのです。

 私は武術稽古研究会を自由な会だと思い、そう信じて25年間続けてきたが、いつの間にか自由にしていた故に、自然と知らず知らずのうちに出来てきた或る種の雰囲気によって身動きが苦しくなっていたのである。ただ皮肉なことだが、今後会を解散した後の新鮮さを保つためには、その時々の場に集うより多くの人が出来るだけ気持ちよく稽古をするために、今までにない決まりごとは逆にハッキリと文字や言葉にした方がいいかも知れず、この辺りは何とも微妙なところだ。
 とにかく、いろいろやってみて不都合があれば次々壊して作り直していこうと思っている。

以上1日分/掲載日 平成15年10月22日(水)

2003年10月23日(木)

 昨日は新潮社のA女史来館。新潮社で、いわば養老番の編集者でもあるA女史は、流石に養老先生が認められているだけに話の引き出し方が上手く、それでいて少しも才気ばしった雰囲気がなく、いくらでも話しをしていたくなる独特の人柄の良さがある。昼時だったので、玄米飯にあり合わせの野菜などの昼食を共にしながら話をしたが、食事の御礼や感謝の表わしようが過剰でもなく言い足りなくは勿論なくて、とても自然で、あらためて編集者の才能というのは人柄も含めての事だと認識させられた。
 その後は横浜に出て、もう何年ぶりになるだろうか、多分7〜8年は経っていると思う、刀剣の蒐集家として著名なS社長宅を訪れる。S社長宅には昨年暮れ辺りから是非伺いたいと思いながら、なかなかその機会がなかったもの。鶴岡八幡宮のイベントの際、請われて貸し出したという古備前為清などの名刀を手にとって見せて頂いたが、その地鉄の見事さは見ていたら何時間でも経ってしまいそうだった。帰路、宝島社の編集者T氏から電話。9月に話のあったT氏切望の企画はどうやら動き始めたようだ。
 翌日から東北行きで、その前にやることも山積みしているので早めに帰宅をしたつもりだったが、帰宅した時は、「人間講座」の第3回目がすでに始まっていて、はじめの方は見られなかった。今回はあまり間違いはないなと思っていたが、最後の方で私が無住心剣術の話をしているのに、字幕スーパーは夢想願立となっている事に気がついた。そして、その直後に夢想願立の話をし始めると、再び同じ夢想願立を説明した字幕である。「ああ、これは間違ったな」と思って、ちょうど連絡のあったこの番組の制作担当者のI氏にこの事を話したところ、I氏の手許にある本放送用のテープは、ちゃんと無住心剣術の解説になっているとの事で、I氏も「それはちょっと考えられないことですね。一体どうしたんでしょう」と半信半疑の様子。しかし、再度、再再度ビデオを見直してみても、私のところに放送されたものは夢想願立の解説がダブっている。いったい何がどうなったのか、後日理由が分かったらこの随感録で誤りの原因について発表することにしたい。
 私個人として、今回の放送で一番興味深かったのは「影抜」の技。今まで影抜はかなり切り結ぶところまで切り込んでから返っていると思っていたのだが、実際はかなりその前から軌道変更していることに初めて気づかされた。これはやはりNHKのような豊富な機材で横ばかりではなく、上からも撮ってもらったのでハッキリと分かった事であり、これは有難かった。
 このように、実際は現実に打ち合いそうになるかなり前から竹刀の方向が変わっているのに、相手には実際に打ち合うかと思うほどの所から変わっているように見えるのは、野球で手許に来てから落ちるとか曲がるとか言われている変化球も、実際にはかなり以前から変化している事と同じなのかも知れない。やはり視覚というのは状況でかなり騙されるものだ。
 しかし、無住心剣術の使い手で小出切一雲の高弟矢橋助六の門人、駿州田中藩の小山宇八郎が只しずしずと歩み寄るのが、相手にはその姿形を認める間もなくどうしようもないまま茣蓙などに巻かれ、木刀を振ることも叶わないというほどの術は一体どうしたら可能なのか。まだまだ人間の動きと認識のメカニズムの把握には程遠いところにいるとしか言いようがないだろう。

 さて、今日から東北。27日の新宿の朝日カルチャーセンターの講座には出るつもりだから、今回は慌しい旅行となりそうだ。

以上1日分/掲載日 平成15年10月23日(木)

2003年10月27日(月)

 今、東北での10月の予定をすべて終えて東北新幹線"つばさ"の車中でこれを書いている。東北へは23日の午後3時36分発のつばさで向かったから、ちょうど丸4日間に相当する96時間前に、この帰京するつばさ116号と何処かですれ違った計算になる。
 今も言ったように今回は、ほぼ4日間東北にいた事になるのだが、泊まる場所は日毎に変わり、あちこち移動するのに乗せてもらった車種も5種類以上に及んだと思う。そのため、旅先からもこの随感録の原稿を2回は送ろうと思っていたのに1回も送れず、宛名を書いて持っていった何通かの封筒も中身の手紙が書けぬままの持ち帰りとなってしまった。したがって、4日間居たというよりも、90時間くらい居たという方が表現としてはピッタリくるほどの多忙さだった。
 ただ、11年前から年に何度も来ていたが、今回が一番紅葉を多く観たように思う。心残りは数々あるが、めまぐるしく場面が変わった中でも永く記憶に残りそうな事はいくつもあった。思いつくまま挙げてみると、DSSF(デジタル・スポーツ射撃連盟)の藤井監督にインターネット・オークションで入手してもらった斧が、炭焼きの佐藤家で実際に薪割りに使ってみると、その刃の大きさと重さからか今までで一番威力があり、薪割りの爽快感が一段違ったこと。仙台の稽古会に佐藤家まで迎えに来てもらった藤田氏(NHK「人間講座」では受を一番多くとってもらった)のフェアレディZの高速での安定感を肌で感じ、技の工夫に刺激を受けたこと。
 仙台での稽古会は、今までにないほど初めての方が多く見えたが、寝技という私が全く未知の分野でも、床と身体の接触面を浮かせる工夫は役に立ちそうだという実感を得られたこと。食用菊、カリン、マイタケ、シメジ、自家製のパンにポトフ・・・という実に心の籠った神山氏の手料理に感激しつつも、途中その食事会の脇で急ぎの原稿に赤入れしてFAXを送らねばならなかったこと。(今後、こういう状況だけは避けたいものだ)
 病人・怪我人の世話をする介護で、そうした人達を起こす方法は既に宝島社の本や人間講座のテキストなどでも発表しているが、寝たまま寝返りをうたせるとか、いろいろベッドの脇に立って世話をする際、腰を捻って腕を伸ばすと腰に過大な負担がくるが、抜刀の体で体を使うと、その腰への負担がまったく違ってくることが良く実感出来たこと。(これは朝日カルチャーセンターの受講生のSさんの体験を元にして私も工夫してみたところ分かったことである)
 今回もマルミツの小関氏、DSSFの藤井監督、足立女史、栗田女史、見事な食材を作られる菊地氏、高畠町はもはやこの人抜きには語れなくなった感のある神山氏、クルマに関してのノウハウは誰もが一目置く山村氏、そのユニークな人柄で今後小学生の希望の星になって欲しいと心から思うS女史、緻密入念な在来工法の大工、深田氏(今回は思いがけずこの深田氏に粗朶づくりの鉈の使い方をおこがましくも解説する事になったが、丁重かつ真摯な深田氏の態度には本当に恐縮してしまった。以前、空手の心道会の座波仁吉先生に本当に丁重な挨拶をして頂き、身の置き所もないほど恐縮してしまったことがあるが、深田棟梁の見事な作品の家を見たことがあるだけに、たかが粗朶づくりの鉈さばきを解説実演している私の言葉に真剣に耳を傾けられる様子には気圧されるものがあった。やはり真剣さ、真面目さ、というのは本質的な力を持っているものである)
 キウイ・フルーツの原種ともいえる深山の珍味「サルナシ」をかつてないほどDSSFでご馳走になったが、この果物の名の由来が「サルが通った後は無い、なくなっている」ということで「サルナシ」というのだ、という説は初めて聞いた。しかし熟したサルナシの味はその説を十分裏すけるほど濃厚で甘い。このサルナシを紅葉を眺めながらゆっくりと頬張れたら本当に幸せなのだが・・・。何とか来年は目は紅葉を見て、舌はサルナシを味わって、鼻は薪の燃える匂いを胸に深く吸い込んでみたいものだ。

以上1日分/掲載日 平成15年10月28日(火)

2003年10月30日(木)

 27日深夜に家に帰り、28日はあちこちから電話が殺到する。一時は電話中に割り込みをキャッチホンで取った時に携帯が鳴るといったありさまで、どこの誰に何を話していたのか、こんがらかってしまいそうになった。
 とにかく急用のうち現在対応出来るのが約半分、つまり半分の急用は後回しになるか期限切れで没になってしまう。そのため、いろいろな方に不義理を重ねていると思うが、誰にどんな不義理を重ねているかを思い出しているヒマもないありさま。
 誠に申し訳ないと思うが、私が土砂崩れに巻き込まれている非常事態の真っ只中にいると思って御容赦頂くしかない。
 ただ、そんな中でも稽古を始めれば、そっちの方に集中して様々な用件が消し飛んでしまうから、まだ精神的には壊れていないようだ。
 昨夜はNHKの「人間講座」の最後の撮り。人間講座の撮りは18日にもう終わったと思っていたのだが、その後の進展も付け加えたいとの事で、最近展開中の四つん這いとなっている相手を引っくり返す「平蜘蛛返し」を撮影するため今回の制作担当の中心となっているI氏が1人カメラを持って来館する。
 夕刻から受けに来てもらった何人かの人達と稽古をしていたのだが、稽古の前の片付けが大変で、「この忙しいのに稽古なんてするんじゃなかった」と初めは思っていたのだが、先日仙台の稽古会で杖を使って槍の突きについて説明していた流れで、槍の操法について解説し稽古しているうち、この槍使いの体を体術に応用展開してみたところ、直入身、相撲での立ち合いなどに今までにない気づきがあった。
 これは左右の手の動きを腹におさめ、「肩を指さないようにする」という『願立剣術物語』の教えが頭のどこかにあったお蔭もある。これは体術の突きに応用しても確かに違いがあり、今まで長い間槍を使う時に行なっていた前手と腕、肩の操作法がこれほどの意味を持っていたのかと改めて驚くと共に、長い間気づかなかった自らの不明に恥じ入ってしまった。
 ただ、1〜2時間の間に私の技の利きがタケノコが伸びるようにというか、蕾から花が咲くように変化していったので、その現場に来合わせていた人達には喜んでもらえたようだった。今日も「昨日は感動しました。帰りの電車の中で興奮しちゃって・・」とわざわざ電話をかけてきた人もいたぐらいだから、稽古としては充実したものとなっていたのかも知れない。
 過密なスケジュールだが、私の道場での稽古も出来るなら今までよりも多くしていきたい。なんといっても道具はいろいろ揃っているし、琉球表の感触は他ではまず味わうことが出来ないから。ただ、何と言っても人数が限られることがネックにはなるが。

*業務連絡
 11月8日9日の長野での講座は当初の予定が変更となり、9日もバスケ関係以外の方も参加できるようになったとの事です。詳しくは児玉英樹氏にお問い合わせ下さい。

以上1日分/掲載日 平成15年10月30日(木)

2003年10月31日(金)

 今日10月31日は大阪へ。朝日カルチャーセンター大阪での講座。
 今日が武術稽古研究会の主宰者としては最後の講座となる。
 「武術稽古研究会 解散のご挨拶」を載せているので御覧いただきたい。

以上1日分/掲載日 平成15年10月31日(金)

このページの上へ戻る