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そんなことを考えているうち、新曜社からの依頼である内田樹先生の御著作の序文を書くという仕事にはまり込んでしまった。とにかく書き出したら止まらないのである。「今日は、NHKのステラからの校正原稿もあるしな。夕方からは養老先生との会食で遅刻は絶対出来ないのに・・」と思うのだが、磁石に吸いつけられるようにして一気に3000字ほどの原稿を3時間ほどかけて書き上げる。
すると、ちょうどそこへ大阪の名越氏から電話が入る。この序文には名越氏のことも触れているので、一応了解をとるため電話で朗読。受話器の向こうで笑いの止まらぬ様子の名越氏、「いや、先生きてますねェ〜、いや、きてるなあ〜」と感にたえぬような声を聞いてから電話をきると、もはや出かける時刻が迫っていた。
養老先生との会食場所となっている品川駅近くの小さな和食の店に向かう車中、そこここで満開間近の桜の花を見る。
今日は4月1日、そういえば桑田選手の登板日だな、と思っているうち店に着く。ちょうど今後養老先生との企画で世話になるO女史と店に入ろうとすると、養老先生が反対側から歩いて来られるのが見えた。
ライフサイエンス誌の企画『くろすおーばーとーく』で昨年の1月下旬にお会いして以来だから約1年と2ケ月ぶりにお会いしたのだが、何だか2ケ月ぶりくらいの感じしかしない。しばらく3人で話をしていたが、ほどなく新潮社の編集者の方々も集まり、さまざまに話が展開しているうち桑田投手の話になる。店の人にテレビをつけてもらったので、時々横目で試合の推移を確かめつつ話をしているうちハタと気がついたのだが、桑田投手が現在このような活躍が出来るようになったのも、元をただせば養老先生と私の共著『自分の頭と身体で考える』を、神奈川リハビリテーション病院の北村啓理学療法士が読まれて私に関心を持たれたのがキッカケであるし、私が「桑田投手の変身が確かなものかどうかは、この話に興味を示すかどうかにかかっているだろう」と思って、桑田氏に贈った『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著、新潮社刊)の抜粋コピーは、元をただせばやはり養老先生が関わられている。どういう事かというと、養老先生が数学者の藤原正彦先生と『くろすおーばーとーく」で対談をされた、『薬の知識』誌にこのフェルマーの事が話題になっていたので、かねてからこの問題に関心のあった私は畏友のG氏にフェルマーの最終定理について解説した本の中でどの本がいいかを相談したところ、前述の新潮社の本を薦められたのである。
つまり養老先生は桑田氏に結果として2度大きなキッカケを与えられたことになる訳である。「まあ“風が吹けば桶屋がもうかる”式のまわりくどい話ですが、とにかく養老先生がいらしたからこそ桑田選手の現在があるわけで、そう考えると不思議なものですねぇ」と思わず私が感にたえぬ思いを口にすると、養老先生は「ああ、僕が風なわけですね」と穏やかに微笑されて楽しそうに答えられていた。
話をしているうちに試合は終了。桑田氏は横浜打線を7回まで無失点に抑えて、今期初勝利。誕生日に初登板で初勝利の喜びもあったろうが、恐らく桑田投手のこと、頭の中では今夜の反省点をいろいろ思い浮かべていたことだろう。
私の方は、この夜の会食で、新潮社の方々からいろいろと興味深い話を出して下さった事もあり、ついつり込まれて私が以前から考えていた具体的な本の企画のアイディアを口にしてしまった。
これが今後どうなるか分からないが、取り敢えずはそう遠くないうちに養老先生のお宅にお邪魔して、当面のT社の本の企画に取り掛かりたいと思っている。
そして、その感慨は、すべて私が20代前半の頃、将来何になるというあてもないまま、その不安な思いをすべて合気道を始めとする武道の稽古に注ぎ込んでいた頃の思い出である。
当時、私は合気道の本部道場に通っていたが、稽古量はおそらく誰よりも多かったと思う。「膝行が基本で、これが大事だ」と聞けば、1時間以上、おそらく3kmはやったりしたし、憧れの先輩が徹夜ででも稽古するなら、是非稽古台に使ってもらいたいと熱望していた。そんなふうであったから、30年前の私が、もし現在の私に出会っていたら、おそらく1日中でも付いて回り、頼まれ事があれば雑用であっても感激してやっていただろう。(しかし、30年経って、もし現在同様な人が現れたら、私としては当惑してしまうだろうが) もっとも別に私にしょっちゅう貼りついていなくても、ある程度私の術理を理解し、技を体験すれば、30年前の私ほどの情熱があれば、現在の私のレベルに追いつくことは、さして難しい事ではないと思う。
現に技の種類にもよるが、私に勝るとも劣らぬ状態となっている者は何人もいる。そして、そういうふうに動きが向上して来る人たちのお陰で、私も前へ進ませてもらっている。
たとえば、昨日は久しぶりにJリーガーのK選手が都内の稽古会に来てくれたので、手を合わせたところ、又一段と動きの質が良くなっていて崩れにくい。そこで最近研究中の体幹部を使った体の躱しがサッカーに対してどれほど有効かを試みるにはいい機会なので、いくつか受けてもらったところ、床を蹴って体を躱そうとすれば確実に止められるが、体を宙に浮かし体幹部を使った躱しを用いれば、まず止められずに抜けることが出来るという感触を得た。
この他、体側同士で当たり合ってポジション取りをする時、肩を沈めて上腕は伸ばすという事が有効である事も確認出来た。これは上腕を伸ばす方向もいい加減のまま相手に当たると、当たった直後の身体各部の使い方がいい加減で無駄なものになるので、ちゃんと交通整理、役割分担をしておく(つまり、緊急対応が速やかになっているようにするという事)という事の大切さを、この上腕の伸ばしによって(伸ばすといってもただ伸ばす訳ではないが)学ぶ事が出来たのである。
私はものを書いたり人に話したりすることにも、ついのめり込むところがあるが、今回の事でやはり情熱の優先順位は現在でも具体的な武術の技を研究する事が最も高いことをあらためて知り、何だか少し安心した。
その、私がすこぶる納得したというのはどういう事かというと、腰を沈め、又立ち上がる、という練法のやり方と解説が、私が以前から言っていた「仕事は宙でやれ」という事とピタリと一致した事と、それによって体幹部からの発力が今まで言っていた"石鑿の原理"とは別の方法を、また1つ気づいたからである。(尤も微妙に関連はあるが・・)
「これでまた一段前に進めそうだぞ」と思ったが、今度はこの情熱に果たして50代半ばとなった私の体力がついていけるかなという心配も多少はある。それから、現にもうこぼれ落ちそうなほど詰っている予定をどうするかという事。特に今週末からは、関西や四国・中国地方へ1週間ほどの旅に出るので、各地へ送るその荷物づくりなど、荷崩れを起こしそうなほどやる事はあるので、又々オーバーワークになってしまうのではないかという憂いもある。
ただ、今の自分にとって何が重要で何を選び取ってゆくべきかをあらためて考えたいと思う。もっとも、ものは考えようで、もし稽古への時間が十分にあったら、実験的な稽古を無茶苦茶にやって体を壊すことになるかも知れないので、他の用件もあって忙しいというのは、それはそれでいいことなのかも知れない。まあ、口では何とでも言えるが、その辺りの調整が今の私にとって一番難しいことなのだろう。
以上述べたような状況ですので、今後私に用件を依頼される方は(お断りさせていただく場合も少なからずあると思いますが)、どうか現状を御賢察頂けますようよろしくお願い申し上げます。
そう思った時、以前肥田式強健術の創始者、肥田春充翁が晩年、壮絶な実験研究を続けていた時、『腰腹の間に猛烈な力を生み出し、それをちょっとずらすと、その猛烈な力で自分の腰骨を折りそうだ」との述懐を読んだことを思い出した。その折、そんなふうに自分の体の中に力を生じさせるというのは一体どういう事なのだろう、と驚嘆すると同時に、「質の異なった力を生み出すというのは、きっとそういう事なのだろう」と深く納得したものだが、今回の気づきで自分にとって遥かに遠かったそうした世界が、驚きと憧れで見上げていた時に比べれば、少しは近づいてきいた気もした。(もちろん、まだまだ遠いが・・)
しかし、現在の山積みする忙しさがなかったら、「これはちょっと生体実験をやり過ぎて体を壊すかもしれないな」という事を感じる一方、「凄まじい忙しさの上にこうした研究をやるから、よけい体を壊すんじゃないか」とも思う。とにかく『願立剣術物語』の62段目の話ではないが、「行くに虎あり 帰るに龍あり 立つは炎生ず」で、行っても帰っても、その場に居続けても、どれもキツイ状況には変わりない今日この頃だ。
もっともこれは酒好きな人が飲酒をどんなに止められても、なかなか止められないのと同じで、私も技について試みたり話したり書いたりして考え、研究し続けることはどうにも止まらないようだ。
それにしても私の今の忙しさは尋常ではない。7日はとうとう話には聞いていたが、時間がとれないという私のために、家から講座のある朝日カルチャーセンターまで、出版社の用意したハイヤーの車中でインタビューに答える状況となってしまった。
昨日8日は1日のあいだにi打合せ、校正、その他連絡が来たり入れたりした出版社だけでも7社。何とか8日中に関西・四国行きの荷物を作ろうと思っていたのだが、その夢もつぶれる。
今日はもうすぐ稽古の人が来て、夕方から夜にかけては、初めて私の住んでいる地域での商工会議所主催の講演会に出る予定。
とにかく今の私の最大にして切実かつささやかな願いは、道場や部屋が片づき、旅先への荷造りが出来ることである。
お陰で、この随感録も旅行に出かける前もひどく忙しかった事もあり、最近では珍しく間が空いてしまった。旅行に出かける前、書きかけのものがあったのだが、とにかくホッとする時間が5分もなかった事もあって、書ききれないまま原稿を持って出て、結局急ぎの原稿の校正などを旅行先からFAXや電話でやるのが精一杯で、結局今、帰りの"のぞみ"の車中で、旅に持って出た4月10日、11日の原稿をまず仕上げ、次いで今回の旅での出会いや気づきを書いていきたいと思っている。
それではまず4月11日の随感録から順を追って、駆け足でここ1週間を辿ってみたい。(本日はまず4月11日の分を載せることにしたい)
4月11日
4月の10日は葉山のO氏夫妻とO氏夫妻が世話をされている塾で、俳優の宇津井健氏、心臓外科医の須磨久善葉山ハートセンター院長と会食。この会食は、先日"花の詩"の刊行記念パーティーでお会いした宇津井健氏の御要望がキッカケでO氏が場所を作って下さったのだが、そこへ御都合をつけて頂いた須磨先生も見えられる事となり、思いがけず密度の濃い空間となった。
宇津井氏は俳優になって今年で50年の大ベテラン。デビューはかの『7人の侍』の通行人で、仲代達也氏と共に2〜3秒出ただけとの事だが、その2〜3秒に朝9時から臨んでOKが出たのが午後3時だったとの事。その他、乗馬の話、ナイフメイキングの話等々興味深いお話をいろいろと伺えた。
須磨先生はNHKの『プロジェクトX』でも取り上げられた「神の手」を持つと噂される心臓外科医。日本より、むしろ海外で評価の高い方だが、私の話を聞かれながら、「いやあ同じですねえ、似ていますねえ」と、しばしば共感の意を表して下さって、大変興味深いお話をいくつもして下さった。このような方とは夜を徹して話しても話が尽きるという事はないと思う。御縁のあった事に深く感謝したい。
それにしても今日、今の私の時間の無さは一体何なのかと思った時、須磨先生との出会いのような得難い御縁に恵まれた事の税金の一種だなという事に気づき、思わず苦笑してしまった。
というのも、昨日葉山に向かう途中、JR南武線の車中で忘れ物をしたのだが、葉山の塾のスタッフのS女史がその忘れ物を気遣っていろいろ手を尽くして下さって、それらしきものが川崎駅に保管されている事を突き止め、私に電話が入ったからである。傘とペン入れという金額的には大したものではないが、16日までに受け取りに行かなければ警察へと渡されてしまう。しかし明日から関西。駅に電話すると、代理人では確認のしようがないとの事。それを聞いた時点で、「ああ、これはこれだけ時間の無いなか、更に時間を私から奪うというかなりの重税に違いない。これを払っておかないとまずいな」という直覚が働いたので、池袋の講座の後、私が川崎を回って受け取りに行くことにした。
しかし、今日は講座の後、S社のM氏の著書に私の意見を書いて欲しいとの事で、ライターのI女史からのインタビューを受ける予定が入っている。そこで、これは私の責任なので、池袋でタクシーを拾い車中でI女史のインタビューに答えながら、山手線に沿って品川方面へ。渋谷を過ぎた辺りで大体の話が終わったので、恵比寿でタクシーを降り、そのまま私は川崎へ直行。約30時間ぶりに使い慣れたペンケースと再開して連れて帰る。
しかし昨日からの時間の無さには泣く思い。関西・四国・中国各地への荷物の発送日の限度が4月10日のため、用意を数日前からやっているのだが、電話やFAXやらが立て続けに入って、各地に何をどのように送ったらいいのか十分に考える時間がないまま、昨日は葉山へ出かける時間が来てしまったため、「もうこれでいいや。旅先で盗難に遭い、それが戻って来たと思えば『ああ盗られたといっても大した事はなくて良かった』という事だろう」という切羽つまった慰め方で四国や関西への荷物を3つ出す。(そのお陰で下着など、ものによって有りすぎて困ったり、足りなくて、夜ホテルで洗い、ドライヤーをかけて乾かしたりするハメとなった。後注:4月18日記)
夜は名越宅へ泊まったが、話しの通りが桁違いにいい人といると疲れも忘れて話し込んでしまうから、まず初日から寝不足。
13日は四国での稽古会。四国での稽古も10年近くになるが、かつてない人数に驚かされる。半分以上はスポーツ関係者。何種目ものスポーツ選手、関係者が来られていたが、その中に卓球界では現在の日本を代表する選手も混じっていて、その熱意には私も疲れを忘れ、4時間以上ずっと動いたり喋ったりの状態だった。
その後、世話人の守氏らと懐石料理のE亭で食事。更にE亭の主N氏の以前からの御依頼で揮毫。書など正式に学んだ事もない私が揮毫など柄ではないが、以前映画『御法度』の題字を大島渚監督の妹に当たられる大島瑛子女史の強っての御依頼で書いて以来、N氏から数年越しに守氏を通して頼まれていた事なので、「ただ字を書くだけですよ」ということで了解する。
しかし、いざ始めてみると、ついつい私ものめり込み、すべて終わって守氏にホテルに送ってもらった時は午前2時をまわっていた。
14日は守氏の店に寄り、『文芸春秋』誌のインタビュー原稿の赤入れを、これを書いた田中氏の許へ送り、その後、岡山の光岡英稔氏宅まで車で送ってもらう。光岡氏とはしばしば電話で話しをしているから久しぶりという感じはしないのだが、光岡氏が中国へ渡って、凡そ中国武術を志した人なら例外なく知っているO師の高弟の仲でも抜群だったというK・S師とその御子息のK・K師に会って大変なインパクトを受けてからは顔を合せるのは初めてだった。
出迎えのにこやかな表情は以前のままだが、以前では滅多に見ることのなかった鋭い表情が、出会って30分もしない間に何度も見ることが出来、これを観ただけでも身体の質が大きく変わり始めていることが感じ取れた。
この日は6時半から私の稽古会という事だったが、光岡氏の口から堰をきったように中国でのK・S師やK・K師に関する話が溢れ出し、私も息をするのも忘れるほどに聞き入った。
稽古会は光岡氏の関係者や医師国家試験浪人(旧医学生)S氏など十数名。ここでは総合格闘技のN選手のタックルを受けているうち、足を取られた時は体を浮かせてN選手の背中にこちらの背中が落ちるようにして、そこから締めに入る方法など思いつく。また、K先生の要望で、寝ている人を起こす介護法のビデオ撮りをしていて、床に坐っている人を立ち上がらせる方法の新バージョンを開発した。その後沖縄料理店で打ち上があり、また朝近くまでビデオを見たり話したりの武術漬けの時を過ごす。
翌日は又、中国での体験談を光岡氏に聞き、夕方からは詳しい実技の解説を受け、この日もあっという間に深夜へと突入してしまった。
17日は神戸女学院で講座と稽古会。その前は久しぶりに奈良の大倭紫陽花邑へ。来月の初め徳間書店から私が書いた2冊目の本『武術を語る』の文庫版が刊行されるが、そのなかで初めて紹介させて頂いた大倭紫陽花邑の部分の校正の記憶が新しかっただけに、新緑の大倭の印象はまた格別だった。
24年前の1979年5月21日、今回も出迎えて頂いた杉本順一氏の案内で矢追日聖先生にお目にかかった事が夢の中の出来事のように思われる。
大倭の後、大阪へ出て神戸女学院へ。女学院での講座は内田樹先生のホームページにインフォメーションが出たぐらいであったが、ここも多くの様々なジャンルの方々に集まっていただいた。(詳しくはこのホームページとリンクしている内田先生のホームページを御覧頂きたい)
講座の後は内田先生の御自宅で打ち上げ。打ち上げには名越氏も参加。ほぼ終電で名越氏と共に名越宅へ引き上げる。
18日はH氏の案内で数年ぶりに鏑射寺に中村公隆先生の許へ挨拶に伺う。話の流れで、いつも持っている木彫彩漆工芸作家・渡部誠一師の木の葉の作品をお目にかけたところ、予想以上に嘆息して感じ入って下さり、件の木の葉もこの寺に留まりたいような感じを受けたので、中村先生の許へ末永く預かって頂くようにお願いして、今回の1週間にわたる旅を締めくくった。
今回の気づきの最初のキッカケは、岡山で光岡氏からある練功法を学んだ時である。形は、腕を前方と斜め後方に上げたり下げたりする単純なものだが、単純なだけにやり方が違うとその効果も全く違ってくる。
私は単純なワイパー状のヒンジ運動は良くないと思っていたから、手を単に振り子のように振らないように十分に気をつけていたのだが、体全体を使った方がいいだろうと思って、ごく僅かだが身体が上下動していた。しかし、光岡氏から「この練功法は決して身体を上下させないことが重要なようです」と中国のK・K師からの教えを伝えられて、「そうか、全く上下させてはいけないのか」と、今までの自分のやり方を封じる方向で考えているうち、少し以前から私が膝のヌキをごく僅かにした方が威力が出ると人にも言い自分でも研究している事と、この上下動の禁止が次第に重なってきていたのである。
そして19日の稽古も終わりかけた頃、膝をヌクという事が上半身と下半身の間にアソビを作っていた事に気づいたのである。尤も、この点については以前信州の江崎氏と両手持たせの直入身をやっていた時にも、江崎氏から表現は違うが似たような感想を聞くことがあったし、自分でも足元が居つかないように膝をヌクという事とアソビをなくすという事の矛盾が潜在的に気にはなっていた。
しかし、膝のヌキは私の武術の術理の中で今や代表的存在である。私は私の技について決して権威を持たせず、いつでも変える用意をしているが、やはり長年使っているものはそれなりの信頼感もあるし使い勝手もいいので、ついついそれを基準に他を工夫しようとしてしまうのである。
それが今回光岡氏にこの練功法を学んだ事で大きく見直すキッカケが出来たのである。(といっても膝のヌキが良くなかったという事では全くない。昔日の武術の修行過程はある段階までは"良し"とされたものが、ある段階を超えると否定されたという事だが、今回の私の体験も結果としては似たようなものかも知れない)
とにかく、ある直感が突如として降ってきたような思いで、私はそれまでごく僅かにするようにしてきた膝のヌキを全く封じる事にしたのである。と同時に「体幹部で動く」ということの意味がかつてないほど体感を通して感じられるようになった。(これは膝のヌキを封じたから体幹部での動きが分かったのか、体幹部で動くという事が分かったから膝のヌキを封じる決心がついたのかよく分からないが、恐らくはいくつかの要因が化学反応を起こすようにして新たな術理−というか動き−が出現したように思う。)
思えばずいぶん人を惑わしてきたものだ。
三十(みそ)あまり 我も狐の穴に棲む
いま化かされる 人もことわり
という古歌があったように思うが、今後ますます変化(へぐれ)に変化てゆくことだろう。
私の言動を参考になさる方は過剰な信頼感など持たず、どうか薄氷を踏む思いで御覧になっていただきたい。
とにかく優れたものほど副作用もきつい。
今日午前中から桑田氏が来ていたのだが、桑田氏の場合、この練功法の服用を完全に誤っていて、"うねらない"という事を目標にしていたフォームが、このところ2,3年前のフォームのようにうねってきて思うところにボールが行かなくなっていた。そのため、そこをなんとかしようと増々練功法を数多くやり、ますますうねるようになるというドツボにはまっていたのである。そこで、体がうねるようになってきた理由を彼に説明し、十分納得した桑田氏に私が処方したうねり運動の修正法を行なってもらったのだが、桑田氏が「この時計、本当に合っているのですか?」と驚いたほど2時間という時間が30分ほどにしか感じられないほど2人とも集中していた。
それにしても、このところ桑田氏の動きが以前のようなうねり系の強い動きになってきたため打たれやすくなっていたのを、「今年は桑田の動きもバッターに慣れられたので打たれるようだ」と評する野球解説者の言葉を聞いていると、専門家とは一体何なのだ?と思わざるを得ない。
しかし一方で、今日は卓球の名門であるM社の関係者から是非来て頂きたいと強い指導要請があり、頭の中を変えようとされている専門家の方々もおられる事を思い、多少は気を取り直すことが出来た。
先週、関西・四国方面への1週間に渡るかなり強行軍の旅から帰って間をおかず、旅行中以上に諸用が降ってきているため体調が良いとはとても言えない状態なのだが、動き方、動きの質という事を工夫しはじめると、体の不調も忘れてこの事に思いが没頭する。
それが私にとって良い事かどうか分からないが、とにかく体幹部を動かすという事について、いきなり仕掛けてくる相手の状態に、グッと硬くなることなく、又ダラリと脱力することもない、つまり固まってもいないし弛んでもいないという状態でどう対応するかという事が、いま私の稽古の焦点となっている。
脱力ということは、もちろんこの言葉を使う人のセンスや体感による違いもあるが、概してダラリとぶら下がる状態になりやすいと思う。そして、このぶら下がるという感じは振り子状のうねり運動へとつながりやすい。といって、もちろん固まるのは全く良くない。身を固めて対処しようとすれば、入られる角度とタイミングによって簡単に重心を崩されてしまうだろう。従って、過剰にヌケてもいないし固まってもいない状態が必要なのであり、この事は中国武術のK・K師の説かれるところとも一致する。
今日ビデオ撮りがあって何人かと手を合せて気がついたのだが、抜けても固まってもいない状態を上手に保ち続けると、相手と接触した瞬間に相手との接点部分に自動的に、ここ2,3ヶ月ほど私が説いてきた「石鑿の原理」、つまり石に鏨(たがね)を当てて、その鏨をドンと叩くことによって威力を出す働きが出るように思う。この自動的に出る、というところが今までと違うところで、今までのように意識的にタイミングを計ってやるのとは全く違う。脱力せず硬くならず、あたかも『願立剣術物語』47段目で説かれている“中央”についての記述そのままの身体づくりをいま願っているようだ。
読者の方々の御参考のために、この『願立剣術物語』47段目を全部ここに転載させていただこう。
中央と言う事有り。心の中央也。右へもよらず左へもよらず、上へも下へも付かず、本より敵にも付かず、太刀にもたれず十方を放れて心の中道を行く事也。像有る処を計るは心の中道にてはなし。敵味方の間太刀を打ち合わする間也。間は空中なれば像なし。此の像なき所を推量才覚を以って積む事成るまじきぞ。一尺の間或いは一分一毛微塵の内にも其大小に随て中央有り。一刹那の内にも中有り。「ちりちり草の露にまで」と言う歌の如く也。ただ中央を取る事肝要也。六韜に曰く「勝は両軍の間に在り。」
体さばき 居つかぬ心 大事なり
水に浮かべる 月影のごと
というのがあったなあと思い、「居つかぬ」という事について、また掘り下げて考えている。
「最近は、又よくホームページを更新されていますね」と知友の方からお電話を頂いたが、最近は技の気づきや、いろいろな人との交流等をノートに書く余裕もなくなりがちなので、それらのまとめや各種依頼ごとを出来るだけ落とさぬようにとの思いで優先順位を上げ、時に食事中にもこの随感録を書いている有様なのである。
そういえば、直接私が関わったものだけと限定しても、最近は『フラウ』誌5月130号、『オブラ』誌6月号、『ステラ』誌(別冊ステラ『ラジオ深夜便』3,4月号)が出たし、今日送られてきた『剣道日本』誌6月号にナンバ歩法にも関連して私の事が出ていた。
近々では来月10日頃に出る『文芸春秋』6月号に、そして別冊の文芸春秋誌からも依頼が来ているので、こちらのほうもそのうち出ることになりそうである。その上NHK教育テレビからの依頼、T社の依頼、P社からの1冊分の本の原稿もある。そのため最近は出かけていた方が気持ちにゆとりが持てるような有様。
「体調は如何ですか?」と訊ねられても、私自身いったいどうなっているのかわからないので「ちょっとコメント出来ません」と答えるしかないが、これもあんまりなので、何とかちょっとはホッと出来る時間を持ちたいと思っている。
数日前、腰を絶対落とさぬ事と蓮の葉の上の水玉の動きなどとの関連についての気づきを、この随感録にも書いたが、その後その絶対落とさぬ腰の体を保ちつつ、実際には上半身と下半身の間にアソビやユルミをなくして、また新たな働きが出る事に気づいたのだが、そうした気づきを重ねていても、確かに武術としての動きの質が変わったといえる状態(具体的に言えば私が達人と呼ぶのに躊躇しない状態)、例えば上段から打つとみせて、いきなり横に払ってくる竹刀に対して躱すなり手許に入るなりして自在に捌く、といった昔日の武術家が出来た動きにあまりに程遠い自分が情けなくなってきたのである。
これは冒頭に書いたように「ものは言いよう」で、言い方によっては「向上心がある」と言えるのかもしれないが、「貪欲」とも言えるし、「夢想家」(といっても単純な夢想家ではない。敢えて言えば「被害妄想的夢想家」というところであろうか)と笑われそうな状態とも言えそうだ。なにしろ現代の日本に様々に変化をつけて打ち込んでくる竹刀を完全に素手で捌ける者などいるとは思えない。それにしても、なぜ急にこうも気持ちが焦るのだろうか。
ひとつには、具体的なヒントとなる事に最近いくつも恵まれたからもしれない。なぜかというと、それによって新たな可能性を感じると同時に、現実には出来ていない自分とのギャップが今までになく強く浮き出た感じがしたからである。
ただ、こうした私の思いとは別に本当にさまざまな用件が降ってくる。
5月はかつて私が全く経験した事もない書店でのサイン会がある。いままで講演会の後などに結果としてサイン会となったことはあるが、予告までしてのサイン会などははじめて。このようなことは気恥ずかしくて困るのだが、今までずいぶんと世話になっているPHPの編集者のO氏の強っての依頼のため断るわけにもいかず引き受けた。したがって、私の気持ちとしてはあまり多くの方々に来て頂きたくはないのだが、そうも言っていられないので、このホームページにも告知し、今その事についてこうして書いている。
5月6日の丸善でのサイン会は、その前にミニ講演会もあるとの事なので、普段の私にはないことだが、時間が短いだけに限られた時間内に喋ることを少し考えておかねばと思っている。
それにしても昨夜の気づきは、どうして30年間もこんな事に気づかなかったのだろう、という簡単なことだが、それをするとしないとではハッキリと働きが違うというもの。ちょうど私が最近講演や本などで「蒸気機関車によって初めて車輪をまわして進むという発想が得られたが、そこに至るまで人類は数十年を要した」と書いたように、それまでは他動的な存在であった車(輪)自体を動くようにするという事になかなか気づかなかったようなもので、この、足の表裏をひっくり返して使うという事は確かに普通は思い浮かばないかも知れない。まったく世の中にはそれまでの常識では判断出来ない事が結構あるものだ。
常識的にはまずちょっと分からない事といえば、最近の桑田投手の状況も正にそう。昨夜、市議会議員選挙があって投票に行った折、見知らぬ人から声をかけられ、私が桑田投手に関わった人物である事を確認した上で、「私ファンなんですけれど、今年の桑田投手は大丈夫でしょうか?」と尋ねられた。尋ねられた場所が人気がなかったのと尋ねた人の感じが良かったので、思わず桑田氏の近況について話したのだが、その理由は私も25日に桑田氏の動きを実際に確かめるまでは全く考えてもいない事だったのである。
結論から言うと、彼のここ最近の不調は、体がうねるようになっていた事が直接原因だが、なぜフォームがそのように不安定になったかというと、少し前にも述べたように武術の練功法のやり間違いもそうだが、最も大きな理由は昨年に比べて彼の身体能力が著しく向上しており、その中身に対して昨年まで使っていたフォームが間に合わなくなっていたという驚くべき理由だったのである。(これは高出力のエンジンを貧弱な車体に載せるとうまく走らないのと同じであろう)
とにかく切込入身にしても私の突きに対する反応にしても、昨年は全く相手にならなかったのに、とても同じ人間とは思わないほどに対応力が増していて、しかもその自分自身の動きの質の向上について桑田氏は殆どというより全くと言っていいほど無自覚だったのである。(ただ、守備で打球に対する反応の良さなどの向上については自覚があったようだが)
そこであらためて詳しく"たとえ"もいろいろ使って説明をし、取り敢えずその場で施したフォーム改造への方法で、体の感覚が変わった桑田氏に明るい笑顔が見られたが、ペナントレースのさなか、自らのフォーム改造(といっても内部感覚的な事が主なので、多くのスポーツ関係者には分からないと思うが)に取り組みつつ、実戦もこなすというのは至難なことだと思う。
ただ、もう今までの野球界の常識では前例のない事をいくつもくぐり抜けている桑田氏の事であるから、困難に当たればまた新たな突破口を見つけ、一回り大きくなることを私は楽しみにしている。
それにしても、その場にあって理解してしまえば「なるほど」だが、普通に考えれば「事実は小説より奇なり」だ。人間の身体というのは、まだまだ不可思議なことが山のようにあるのだろう。
さて、今日は朝日カルチャーセンターの講座。その後はT社の編集者が本の企画にのって欲しいとの事で話を聞くことになっている。
そういえば今日、多田容子女史との『武術の創造力』が、ほぼ全国の大型書店には並んだと思います。好評であれば、すぐ続編を始めることになっていますので、御感想など版元へお知らせ頂ければ幸いです。