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そんな中、2日に別冊の『文芸春秋臨時増刊号』のインタビューがあったのだが、インタビュークルーの情熱に引き出され、いろいろと喋った。その後、見本にとインタビュアーのT氏やI氏が置いてゆかれた臨時増刊の3月号にあった『桜・日本の心の花』を読むともなく読んでいるうち、その中で桑原恭子女史が書かれた「救え淡墨桜」につい引き込まれてしまった。
話は、岐阜県本巣郡根尾村の樹齢1500年余のエドヒガン桜の巨木が衰えていたのを、本職は歯科医ながら木の蘇生にかけてその道のエキスパートである前田利行翁が、「もしこの樹の回生に失敗したら切腹して責任をとる」との非常な決意のもと実に涙ぐましい努力で238本に及ぶ根接ぎを施して見事に蘇らせたというもの。まさにNHKの『プロジェクトX』にピッタリの話題で、文章を読んでいるだけで思わず目頭が熱くなったから、もしこれが映像として紹介されていたら間違いなく泣かされたと思う。(あるいは既にどこかで映像になっているかもしれないが・・)
根を大量の白蟻に食い荒らされていた枯死を待つばかりの桜に根接ぎを施すのが大きな意味の自然から見ていい事なのかどうかは異論もあると思うが、衰えて花もまばらとなった巨木が再び木全体が花に包まれたという光景は感動胸に迫るものがある。
映画『もののけ姫』以来、目に映る世の中すべての物がどこか色が失われ、くすんだ映像のように私の心に映ってきていた後遺症は薄らいだとはいえ、まだ引きずっている事を心の奥で感じ続けている私だが、こうした思いをすると、まだ自分の中にもこのような体温があったのだなと何ともいえぬ思いにかられる。やはり人間と自然との共存の難しさの自覚という事が、どれほど私の中の希望を奪っていったかをあらためて思い知らされた。
それにしても出会いが多く、技の進展も急である。1日は都内の稽古会にアメリカで室内のアメリカン・フットボールに挑戦をされているS氏やシドニー五輪のテコンドーの銅メダリストで話題となったO選手、俳優のE氏なども見え、また動きどおしに、喋りどおしの状態だった。
技の方は足の表裏をひっくりかえして流れを作る事に気づいて1週間。この間に、腹(丹田あたり)に重心を集め膝から下へ落ちる(膝をぬくというより、かつて試みた膝を床に突き刺すという感じに近い)事で技の利き方の威力はまた上がった。まあ、上がったとは言っても課題は多く、行く先は遥かに遠く霞がかかっている。
ただ、それでも日毎にと言っていいほどの気づきがあり、体内感覚を探っていると、たちまち時間が経ってしまい、他の事が何も出来ず、このところ新しい原稿書きや校正がほとんど止まっている。(それは、この随感録の間が空いている事からも察して頂けると思う。ただ、何といっても技の研究は私にとって最優先事項なので、原稿書き、校正、それに新刊書の献本などが止まっているが、御容赦頂きたい)
とにかく何か自分にあらざるものに肉体を占領され、いいように使われている気がするほど、稽古法の工夫と実践で連日のように寝るのが午前4時過ぎという状況に、果たして体が持つかなあと思うが私自身でもどうにもコントロールが利かない。
なにしろ、この日夕方には絹の糸と織りにかけては知る人ぞ知る志村明氏がH女史の案内で来館されるという事だけが頭に入っていて、その前に稽古を入れていた事を完全に忘れていたため、山積する用件を忘れることを始めた第1日目に、そのキツイ副作用があった。わざわざ来られた人を無駄足させるわけにはいかず稽古。そして稽古を始めれば、ついつい熱が入って片づけもそっちのけ。
その後、私の念力が効いたのか、道に迷われて30分遅れの志村氏とH女史を迎え、稽古の人達と入れ替わって、お話を聴く。明治以後の効率最優先で繊維の世界も大きく様変わりしたようだ。そんなお話を伺っているうちに、たちまち夜。雑穀飯を一緒に食べて戴き、片づけをしかけで電話に2,3本ほど答えているうち早零時。山積みしている用件を忘れ、成り行きを愛しての生き方はストレスはかからないが、どうやらそのツケが大変そうだ。しかし私の意識がどこかで限界を感じて緊急にブラインドをかけているようで、とにかく忘れに忘れる。忘れる事の実践を始める前日の一昨日でさえ、丸善でのトークとサイン会に手伝いに来てもらった人に渡すものを2つも持っていって、ずっとかなりの時間一緒にいながら全く思い出さなかったし、昨日もかなり急を要する電話のかけ忘れが4〜5件あった。(忘れたというより時間がなかった事もあるが・・)
どうか私に用件を依頼されている方は必ず御確認下さい。
それにしても6日から25日まで、16日1日を除き全て予定がビッシリ。たとえば今日は真里谷円四郎の子孫、真里谷繁氏が来館の予定。しかも13日〜15日の関西は凄い日程。17日からの東北は、仙台でも高畠でも結構いろいろな人が来られそうである。18日の高畠の後、19日は米沢東高でもフェンシング部中心に稽古をやる事になりそう。
しかし、忘れようとする事も大変だ。今これを書いていて、電話を急いで入れなければならなかった所を2,3件思い出してしまった。尤も詳しく点検してみてある程度でも落ち着ける状態になるところまで電話をしていたら、1日中(食事中も)電話をしていても終わらないくらいの状況になっているだろう。(恐ろしいからそんな事はしないが)
したがって、連絡待ちの待機中の方はどうかそちらから御連絡下さい。なおFAXの状態が悪いので、FAXを入れて頂いても私に届いているとは限りません。必ず電話で御確認下さい。
しかし技の方というか稽古法は今日も進展があった。とにかくここ最近は稽古を始めればすぐに必ず2つや3つの気づきがある。今日も鍛錬法というか私なりの練功法を3つほど思いつく。今度の稽古会や朝日カルチャーの講座などでこれを公開し、何人もの人々がそれをやっていたら、そこに来たここ何年も私の稽古会に出ている人が、来る場所を間違えたと思うのではないだろうか。それほどに今までの私の技のイメージとは違う動きである。まったく自分でもこの先どうなってしまうのか、と思うほど気づきがいろいろ降ってくる。
今どこかにカンヅメにされてアシスタントをつけられ、動きを工夫するように言われたら、それこそカイコが繭を作るため次々と糸を吐き出すように様々な稽古法や技が生まれてきそうだ。
浮世の義理は欠くだろうが、いろいろ予定などを考えなければ考えないほどそういう直観的アイディアが浮かんでくるようだ。しかし、浮世のプレッシャーは強いから、2日ともたないかもしれない。
しかし、やらなければならない事を気にしていればストレスだし、無理に無視すれば、それはそれで又無理があるという、上にも行けず下にも降りられず、全くもって日常が禅の公案のような状況になってきた。そんな時に内田樹先生の新刊書が続々届く。タイトルは『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(角川書店刊)と『私の身体は頭がいい』(新曜社刊)。これは私が序文を書かせて頂いたもの。
『私の身体は頭がいい』の序文にも書かせて頂いたが、つくづく内田樹という人物の奇手の打ち方と、他人がちょっと、いや滅多に真似の出来ぬ論の展開のさせ方には唸ってしまう。そういえば『文芸春秋 臨時増刊』2002年12月号に書かれていた「バーチャル爺のすすめ」の中でも、「老いてこそ人生」とか「生涯現役」といった誰も反対出来ないような言葉に対し、ものの見事に死角から一撃を与えられている。
とにかく内田先生の御見解は、ある面大変大変常識的でありながら奇抜奇手の連打で、一度論壇の論客として第一人者を自認されている方とのトークをどこかの誌上で行なって頂きたいと思う。
関西に出かける前日の夕方、講座のあった朝日カルチャーセンターに着いた時点で、そこに倒れ込んで寝たいほど、数日前からの過密な予定に追われていたため、この二泊三日そして一日おいて四泊五日の東北への旅に体がもつかなあと思っていたが、どうやら前半の関西の旅は無事終わろうとしている。それにしても今回ほど、まるでテレビのチャンネルを変えるように、前後で全く関係のないような場に、次々とまるで瞬間移動したような感じで動いたことはなかった。特に14日はそれが一番鮮やかだった。
まず朝九時前、私が泊まっていた大阪の名越氏宅の前まで卓球関係者の方々の出迎えで、一路、八尾のミキハウスの体育館へ。ここで卓球の世界大会へ出発する直前の数人の女子選手を含め、鳥取や広島から集ってこられた卓球関係者の方々を前に、私の動きの実演と解説を行う。この場にはわざわざ東京からこの日のために休みをとって駆けつけられたという、以前この随感録でも紹介したT氏と雑誌『卓球レポート』の記者K女史の姿もあった。しかし、何よりも驚いたのは、この日のために京都から来られたという王会元氏の動きを見せていただいたことである。
王氏は現在44歳とのことだが、かつて卓球界の頂点に立たれた中国の名選手中の名選手で、卓球史に永く残る天才の名を恣にした方とのことである。その技術は、ちょっと人間とは思えない、とのことであったが、私は一目見て、いままで見たあらゆるスポーツ選手のなかで、最も動きの質が武術に近いという印象を得たため、思わず見惚れてしまった。
その動きは中国武術的に言えば内功があるというか、勁が働いているというもので、しかも体の移動も床を蹴ることなく瞬間々々の重心移動によるため、ベタ足のまま動かれているし、崩れそうになる体の不安定もじつにうまく使いこなされている。そして私が実演した杖や剣の動きについても、「ああ、それも私使っています。」という形でいろいろと示される。聞くところによると、私の動きを見てから御自分の技法を説明される説明方法が、いままで一度も言われたことのない角度からされたということで、今回私をミキハウスに招くことで一番骨を折って下さった淡路島のY先生に大変喜んでいただいたことは、私としても何よりだった。
それにしても先日四国の稽古会で、このY先生やミキハウス卓球部門のH選手や大嶋監督にお目めにかかるまで、先ほど触れたT氏が個人的に関心を持って訪ねて来られた以外、まったく縁がなかった卓球界と、いきなりひどく濃い縁が出来たことの不思議さは、我ながら狐につままれた気分である。
10時から食事をはさんで2時までの約4時間はまたたく間にすぎ、2時過ぎには、私を迎えに来て下さった朝日新聞大阪本社の石井氏と共に車で梅田へ直行し、梅田から阪急で京都ジュンク堂の『武術の創造力』刊行記念サイン会会場へと向かう。会場で多田容子女史やPHP研究所の大久保龍也氏らと合流、五時からのサイン会に臨む。つい三時間前までいた所と、あまりに違う環境にいるとさきほども書いたようにテレビのチャンネルを変えたような気がして、自分がナマ身でそこに身を置いているという気がしなくなり、あがることも照れることもなく、ひたすらサインをした。
サイン会の後は、私が大阪の法善寺横町に来月開店するある店の名前の名付け親となり、その店の看板も書いたことから(この縁は名越氏の関係からつながった)、かねてより招かれていた懐石料理へのご招待で梅田に戻り、迎えの車で"味吉兆"へ。
十畳間を二つぶちぬきの純和風の座敷に五人。その静かな雰囲気と繊細な料理の数々は、いままで私が経験したこの種の店の中では、最も印象に残るものとなった。
その後、タクシーで名越氏とこの日のふり出しとなった名越宅に戻ったが、この日一日で、あまりにも雰囲気の違うところを移動したため、この日一日の出来事が、とても一日のうちに起こったこととは思えず、そのため思ったほど疲れを感じなかった。
そして今日は雑誌『イグザミナ』のインタビューを多田女史と受けたあと、旭屋でのサイン会に臨み、その後大久保氏を交えて本の刊行打ち上げと、続編を出す場合の打ち合わせを行い、新幹線に乗ったのである。
しかし、今回は13日、先月御縁の出来た三宅先生の縁でボクサーで著名なT選手やら何人もの格闘選手と会ってさまざまなデモンストレーションを行い、その後は中国語学校の有明塾でも講座。塾長の林修三先生や神戸女学院大学の内田樹先生、14日ミキハウスへ私を案内して下さったY先生御夫妻、Y先生と一緒に来られたかって卓球の女子で頂点にいた方、プロの棋士に加え、前会場から一緒に有明塾まで同行したT選手など、各分野のエキスパートが、さほど広くない会場に何人も来られていたから、かなり濃い空間となっていた。
さて、後半の北への旅はどんな出会いがあるのだろうか。
なんでも射撃の日本を代表する選手の八割以上が、幼少期に新鮮な、いい食べ物を食べられる環境で育っていたとのことである。そうした食へのこだわりから藤井監督は選手の合宿に良質の食事を提供してもらえる地として、山形県高畠を選ばれたとのことである。
現に山形新幹線の高畠駅は、そうした食へのこだわりを高畠の地全体が持っていることを示すかのように、良質の野菜や古代米が駅の改札口のすぐそばで売られているのである。ただ、今回一泊したその駅の構内かと思われるほど近いホテルの食事が、全国どこにもあるごく普通な食材を使ったメニューであったことは、いささか寂しい感じがしたが・・・・。こうしたことも今後改善され、高畠の地がスポーツ競技を通じて食材の質の大切さを訴える発信基地となれば、これからの時代にとってすくなからず意味のあることになるように思う。
そのことと関連があったのかどうかわからないが、いま述べた高畠の駅前のホテルに泊まった夜、ふとつけたテレビでエーゲ海を臨むギリシャの地の荒廃、つまり乱伐による礫砂漠化を、粘土団子による自然農法で見事に蘇らせている話が放映されていて、思わず身を乗り出して観ているうちに、深いインパクトを受けた。
画面を観ていて、なぜか突然農薬や化成肥料による現代農業が無住心剣術で言うところの「己れに劣れるに勝ち、まされるに負け、同じようなるには相討より外はなくて、一切埒のあかぬ所のあるぞということに心付きて・・・・」というくだりと重なってきて、自分のやってきたこと、そして現にやっていることについても、なんともいえぬ空しさを覚えてきた。
またあの、映画『もののけ姫』以来の四年にわたった落ち込みに引っぱられてきたな、と思ったが、無住心剣術にもさまざまな問題があったことや、とにかく自分は現代という時代のなかから逃げ出せないのだ、ということを色々な角度から繰り返し考え、東北から帰った翌朝、とにかく今私が模索している、アソビのない力の出る体によって内面も『願立剣術物語』で説かれているような「心のビクリビクリと驚く病ある身」から夢のさめるようにして、たしかなものを得なければと思いなおした。そして、そのためには自分の技の程度の工夫に伴った内面の確かさ、すなわち丹田の充実をみつめてゆこう、との思いを新たにしたところである。
しかし、そうした私の事情にかまわず、FAXはくる、手紙はくる、電話はくるで、そうしたことへの対応だけでたちまち数時間は経ってしまう。とにかく、あらためて今私が抱えている待ったなしの企画を確認したところ、積載量をはるかにオーバーして走っているトラックのような状態となっているので、当分の間は新しい企画、インタビュー等はまったく引き受ける余地がない。なんとかして五月の最終週は体調のこともあり、ほとんど休業にしようと思っていたのだが、前々からの約束とか何やらで、結局死守した予定のない日は一日だけ。しかし当然のように、この日はたまっている原稿やら校正、片づけをしなければならないだろうから、まったく休みなしと同じである。
とにかく、これからはいろいろ企画をいただいても、勇気をもって断る方向で訓練をしてゆくつもりである。そうでないと結局各方面に迷惑をかけてしまうだろうから。
以上のような状況ですので、当分の間新しい企画はお受けできません。持ってこられる方はまことにすみませんが、秋以降になさって下さい。
昨日も朝日カルチャーセンターでの講座後、NHKの人とすでに引き受けてしまった企画の相談。
とにかく20日遅くに東北から戻って21日以来、常に誰か来るか出かけるかで、この随感録も書きたいことは山のようにあるが、その多くは書けぬまま日が過ぎてゆく。
ただ24日、かねてから約束のあった葉山での講座の前に、送られてきた雑誌『月刊フルコンタクトKARATE』を何気なくみていてびっくり、なんと四月に商工会議所の主催で行った私の講演会が写真二十枚近くを使い、四ページ約一万字ほどの量でレポートされていたのである。
たしかにこの雑誌の記者のT氏が、この講演会の時に私に近々取材をさせて欲しいと挨拶に来たことまでは記憶があるが、一万字にも及ぶ記事をつくるのに、何の断りもないというのは、いままで私が雑誌にとり上げられたどんな場合にもなかったことである。
こんな大量の記事だったらきっと間違いもあるだろうなと思って読むと、事実関係の間違いやよくわからない表現が何カ所もあった。
昨日電話で、どうしてこのようなことになったのかT氏に事情を尋ねたが「申し訳ありません。気が付きませんでした。」と謝られるだけ。今さら言っても始まらないが、メディアとしては取材される側の立場をもう一度考えていただきたい。
前夜は〆切ギリギリの原稿書きと、最近気づいてきた前傾的な構えをとりつつ中間重心にもっていくことと、足の平起(中国内家拳の教えをキッカケとして『願立剣術物語』で説く「足下薄氷を踏む如しということ」とはこういう足づかいを言うのではないかと、私が勝手に想像して行っている足づかい)の組み合わせで、より丹田部に全身の重さを集約する工夫をやっていて、夜が明けてしまったこともあり、四時間ほど寝て目が覚めたた時は全身疲労で起きるのもやっとの状態。頭を洗って眠気をさまし、三十分ほど待っていただいたフォー・アローズ氏一行と交流。一行は朝4時に岐阜を発ってこられたとのこと。遠路わざわざ来られて、私の中の何かが多少なりとも御参考になればと思ったが、思っていた以上に感動して下さった方もいらして「まあよかったかなあ。」と思うと同時に、現在のような迷いの濃い霧の中にいる私に感激していただいても「たいしたことができるわけでもないしなあ・・・」と、ちょっと荷が重い気がした。
ただ、少なくとも私が望まない社会環境をなんとか変えていこうと努力をされていく方々であるから、そうした方々のお役に少しでもたてたのは意味があったようにも思った。
それにしても私の体の疲労感はただごとではない。人と話しているとそれに気が紛れ、けっこう動いたりもできるのだが、フォー・アローズ氏一行を見送り、防衛大学に出かける用意をはじめたのだが、着替えを段取り良くする頭もまわらず、まず足袋を履き、それから「次何を着るんだっけ、ああ襦袢だ。」と襦袢を着、それから着物「帯はどこだっけ。」「あれ袴まだだったなぁ。」といった具合で、まるで初めて着物を着る人のような手際の悪さに、「こりゃ向こうについても、ただ坐って話をするぐらいのことしかできないかもしれないな。」と思ったほどだった。
まあ幸いなことに防大に着いて、百人を超える学生や先生、関係者の方々を前にすると、思っていた以上に体は動き、約二時間相撲部の学生さんとも押しあったりして、解説を行うことができ、終わったあとはむしろ体調が良くなっていた。
それにしても最近は、私の体調や心の落ち込みを気づかって、本や手紙、メールなどを送って下さる方が多く、感謝していると同時に、こういった人達のある種の心の支えに自分がなっているのかと思うと私自身、自分の未熟さを痛感しているだけに本当にそら恐ろしい気がしてくる。
我が畏友名越康文氏がかつて「僕みたいなおちょこのような器に風呂桶に入れるような水を入れようとしないで下さい。」と言われていた気持ちわかってきた。もちろん名越氏の場合は風呂桶に風呂桶の水という、きわめて当然な評価のされ方、頼られ方だと私は思うのだが・・・