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2003年11月4日(火)

 先月末頃の東北での稽古会の時間経過も早かったが、今回の関西や岡山での講座や会も4日連続で毎日移動していたから、東北旅行以上にめまぐるしかった。今、すべての予定を終えて帰宅するため"のぞみ"に揺られているが、今回の旅ほど忘れ物や失くしものをした事もなかったし、とにかく切迫した用件を何件も忘れていて大慌てもしたが、まあ大過なく過ごせたのは幸いだった。
 今回も各地でまた多くの方々にお世話になり感謝の連続だったが、とにかくゆっくり話をしたい人とも会場や車中で僅かな時間しか取れなかったのは状況からいって仕方なかったとはいえ、何とも残念だった。しかし、驚くほど熱心な方が増えてきた思いがするし、女性で熱心な方、元気な方が目立ってきた。何しろ4回のうち3回まで登場の謎の一本歯の女性(名前も職業も分かっているが、なぜこんなにも一本歯の高下駄をはくことに熱心なのかそれが謎)、岡山の会に泊りがけで九州から来られ、翌日大阪で稽古会があることを知って大阪まで来られた方、名古屋では再度、再々度体験を希望された方々などなど・・。

 多くの収穫があったが、一番の収穫は岡山で光岡師と本のことで対話した数時間の間の気づきである。ここであらためて今の私の稽古法がまだ本当に未熟なことが分かった。と同時に無住心剣術や夢想願立の伝書で説かれていることが、光岡師の意拳の解説を聞いていて一層真実味を帯びてきた。
 とにかく準備をしないで動くという事の重要さと、その実現の困難さを今までで一番深く感じた。「準備をしない」とは事前のタメやぐっと体を固める、いわば覚悟をしないで事に当たれということだから、この働きの困難さは想像を絶するし、現在の体育・スポーツ理論からみれば非常識にもほどがあると言われそうだが、術としての動きとは「そうでなくっちゃならない」と深く深く共感する。しかし、その困難な上にも困難な課題に、これからどう取り組むのか我が事ながらまるで他人事のような気がするところが興味深い。

 このように今回の旅では驚くことが多かったが、身体が強行軍で無理したにも拘わらず何故かよくもった。関西方面に私が出向く時の「鞄持ち」兼「写真係」を自称している医師の卵白石氏は、今回も大阪、岡山、大阪と3ヶ所荷物持ちとアシスタントを務めてくれたが、「先生の体どないなってますのん」と言われるほど、ロクに食べずに身体が動いた。まあ、きっと食べる量が少なかったからもったのだろうが、こんなに食べる量が少なかったのは初めてである。最終日の名古屋など、朝から雑穀飯半杯ほどに、カキ2個、みかん3個、バナナ1本、野菜スープ一椀で午後4時間稽古して喋って、終わってそのまま何も食べずに急いで"のぞみ"に乗ったが、食べないまま同じようにあと3時間くらい稽古したり喋ったり出来そうだった。
 これが体の動きの質が変わってきたために起きてきた現象なのか、脳内麻薬のせいなのか分からないが、人間の身体が現代栄養学が主張するような単純な構造だけで営まれていない事だけは確かだと思う。勿論、生身の身体だから、この先どうなるのか、それも今後の私の技の進展具合と同様まるで予測がつかない。
 しかし、今更言ってもはじまらないが我が家へ帰れば山積みしている諸用の上に又いろいろな依頼やら問い合わせが来ている事だろう。それでもリキまず、覚悟せず、中正不備でとにかく前に向かって歩くしかないようだ。

以上1日分/掲載日 平成15年11月5日(水)

2003年11月4日(火) その2

 家に帰ると、予想はしていたが様々な品々が届いている上、FAXも想像以上にいくつもあった。
 最近は私に何か下さる方も、この随感録等で私の好みそうなものをいろいろ考えてくださる方がいらして、今回の旅でも大阪の朝日カルチャーセンターでの講座の後、ある方からレイチェル・カーソン女史のセンス・オブ・ワンダーの絵葉書本を頂き、これには感動した。この日は武術稽古研究会として最後の講座となったが、最後だからと花束などをもらうより何倍も嬉しかった。絵葉書として使えるようになっているが、今後これをハガキとして出すことは恐らくなく、永く私の本棚に入っていることだろう。
 このカーソン女史の別荘付近の写真を見入っていると、追い回されている忙しさも暫し忘れることが出来る。そして必ず東北の広葉樹の山々が浮かぶ。

 朝日カルチャーターセンターでの講座の後、朝日新聞の石井氏に夕食を御馳走になったが、同行した森林ボランティアの女性に鉈の話などをしていると止まらなくなってしまった。鉈も、鉈といえば日本で「この人の右に出る者はいない」と思われる関根秀樹氏に頼んで、私の好みに合うものを一振りあつらえたいものだ。そうした鉈を揮って山仕事をしていることを想像するだけで幸せな気分に浸れる。
 ナンバでの山登り、鉈での粗朶づくり、薪割り、鍛冶仕事、そんな事の体験学習会に武術も多少入れた「山仕事合宿ツアー」なんていうのを気の利いた人が企画してくれたら、講師として一番に名乗り出たいくらいである。しかし、そういう会は経験者か、せめてすぐ要領をのみ込める人が半分くらいで、後半分が初心者というぐらいでないとスムーズな学びの会にはならないかも知れない。
 ただ、山仕事参勤交代論は、最近養老先生があちこちで提唱されているから、その応援の意味も含め、確かな人が企画され講師を依頼されたら具体的な検討に入りたいと思っている。

以上1日分/掲載日 平成15年11月8日(土)

2003年11月7日(金)

 もしも「時間よ止まれ」と言って時間が止まってくれるものなら百編でも叫びたい状況になってきた。5日、6日の両日ともダブルヘッダーで人が来る。もちろん予定通りの来館で、そうした人が来て稽古したり話をしたりしている間は技の事やら、いろいろ話に思いが集まるので却って楽なのだが、恐ろしいほど押し寄せている目を通さねばならないゲラや依頼稿、荷造り、手紙、片づけ等々といった用件が、ちょうど積みすぎた棚が軋み出して今にも崩れ落ちそうな状態になっているため、人が帰るとガックリとしてしまう。それでも何とか気を取り直してやっているが、“焼け石に水”状態は以前よりひどくなってきた。
 最近はしょっちゅうこのように悲鳴をあげて、この随感録に書いているせいか、依頼はさすがに一時より減っているし、依頼される方も「ひどくお忙しくて御無理かもしれませんが・・・」と、はじめから引き気味に電話をかけて来られるので断りやすいのだが、既に引き受けていた用件で具体的な打ち合わせ等が予想以上に時間を喰ったりしているためか、とにかくここ何日かは右を見ても左を見ても上下どちらを向いても目に入るのは山積みした用件ばかり・・といった状態である。
 ついこの間、急用の消化率が五割程度と書いたが、今はそれが三割以下ではないかと思うほど。そのため礼を言うべき人に礼もロクに言い忘れていると思うが、なにとぞ御容赦頂きたい。

 そして、今日7日、山田うん女史のワークショップに講師として出かけ、ダンスなどで棒状に硬くなった人間を鉛筆を立てるように起こす方法、人間マリつき、その他いくつか新しい動きを開発する。その後、NHK教育テレビからの幼児向け番組に関する相談を受けたりして、12時頃から約6時間ほとんど喋りっぱなし。流石に今日は疲れたが、それでも動いてさえいれば、まだ何時間かはもったと思う。
 しかし、5日の夜、久しぶりに伊藤峯夫氏と稽古をして、私の動きは以前よりも技は利くが、私自身の実感としては「大変悪い動きよりはマシだが、これをいい例とはとても言えない」という感じ。したがって、動きを説明する時、体じゅうが居ついた技が全く利かない動きは「大変悪い例」、一応は技は利いて相手が崩れる動きは「まだまだ悪い例ではあるが、まだマシな例(そして、これが現在の私にとっては精一杯の動き)」としか言いようがない。
 今後、これがどう変わっていくのか、その過程は確かにこれから動きの質を考える人には参考になっていくとは思う。

以上1日分/掲載日 平成15年11月8日(土)

2003年11月11日(火)

 私にとって少なからず恩のあるN女史に、身体教育研究所の「野口裕之先生の公開講座の御案内を送りますから」と電話で約束をしながら忽ち1ヶ月以上経ってしまい、とうとうN女史のほうから問い合わせの手紙を頂いたのが私が信州の長野工専で開かれた『古武術バスケクリニック』へ向かう前日。恐縮してすぐ返事を書くべく8日の朝信州へ御一緒する防大の入江先生が午前6時半に車で迎えに来て下さったその車中へ返信用の便箋封筒を持参し、少し書き始めたのだが、様々な事があって長野のホテルで一泊している間も書けず、結局家へ持ち帰り漸く書き上げて封をする。日時も迫っているし、他にも急ぎお知らせしたい事もあったので速達にしようとして切手を取りに行っている時に電話やら何やら・・。
 とにかく今やどの部屋に行っても山積みしたやりかけの仕事だらけ。フトそれらに気をとられ、ハッと我に返って速達の切手を貼ろうと封をした手紙を探したが、それがさまざまな書類に紛れてどこにどうやったのか出てこない。仕方がないので電話で差し迫った伝達事項を話すべく電話番号を探したのだが、これが旧住所のものはあるのだが新しくなったものは電話帳に書き写していなかったので、1ヶ月半ほど前に頂いた電話番号が書かれたFAXを探し始めたのだが、これが大仕事。
 なにしろ次々とやりかけの事、連絡しなければならない事等のゲラやらFAXが出てくるわ出てくるわ、その優先順位を考えているうちにどんどん時間が経ち、まだ2時間はあると思っていた朝日カルチャーセンターの講座に出かける時間が迫ってくる。もちろんこの間電話が入り、FAXが入り、その電話の相手も割り込みで何度か替わるという有様。ようやく目的のFAXを見つけた時にはすでに出発20分前。急いで電話をし、思わずいろいろ喋っている間に割り込みが2回。大慌てで家を出て新宿へ向かう。

 このような、もうどうにもならない慌しさの渦中にいるが、そのため却って稽古となると、それに没頭できるのか、8日、9日の長野でも10日の朝日カルチャーセンターでもいろいろ発見やら気づきがあった。
 まず長野では、バスケットボールでスクリーンアウトと呼ばれるらしいゴール下でのポジションの取り合いで、相手の背後にいた状態から相手の前面に出たいという時に二軸をつくって1軸に寄せてから反転するという方法を思いつく。私はフト思いついただけなのだが、同行の入江先生(防大助教授で同校バスケットボール部ヘッドコーチ)からは「まったく革命的な方法」と過分な賛辞を頂いた。
 この他、私が「ミスズ返し」と呼ぼうかと思っている、バスケットのボールをちょうど杖を手の甲でも扱うように掌、手の甲、前腕の表裏側面、それに上腕も一部使って腕の中で巡らしつつ相手のガードをすり抜ける技(これは私が個人的には一番面白いと思った技である)なども思いつく。
 この他には、抜刀術の体を延べる形で滑空するように床の上をすべって相手ボールを叩き落す技も思いついた。

 そして10日は朝日カルチャーセンターにゲスト的に来てもらったカバディの選手の質問に答えて、いろいろ動いているうち次々と面白い動きがみつかった。例えば、後ろからしっかり抱きとめられても、体の沈み込みで相手を1度崩すと、相手を引きずって前へ歩ける。反対にこちらが抱きとめて体の沈みをかけると、相手が尻餅をつく。その他いろいろとやったなかで最も驚いてもらえたのが、カバディ特有の足首をしっかりと掴んだ状態から、この掴みを外すもの。足裏の垂直離陸はこれに大変有効で、私は生まれて初めてやったのだが、カバディの常識ではまず外す事は難しいというこの捕捉に対して簡単に外すことが出来た。
 私の相手になってくれた1人の選手はアマレス出身で、体重が私より20キロぐらい重いとの事だったから、私が思いついた方法はかなり有効な動きではないかと思う。

 それにしても、こうしたさまざまなスポーツ競技の専門の人たちの質問要望に応えながら一緒に動いている事が、かつてないほど楽しく感じられ自分でも驚いたが、恐らくこれは10月いっぱいで武術稽古研究会を解散し、一個人となったからだと思う。それだけに、今回の長野行きではいろいろと私を助けて下さった防大の入江助教授、長野工専の児玉英樹助教授、出町中学校の加藤裕久コーチをはじめとする関係者の方々に深く感謝の意を表したい。
 さて、今日もこれからダブルヘッダーで来客。明日はCWニコル氏と初めて会う予定。その前にNHKスタジオをまわらねばならず、私の片づけの願いが叶う日はなかなか来そうもない。

以上1日分/掲載日 平成15年11月12日(水)

2003年11月14日(金)

 今日は母の三回忌に当たる。昼前に法要を行ない、その後夕方から始まる池袋コミュニティカレッジの講座に向かう。講座まで時間はあるが、1度家に帰ると又さまざまな用件につかまってしまうので、期限が過ぎかけている原稿が又書けなくなる恐れがあり、とにかく出かけて何処かで原稿を書こうと思っている。
 12日は水曜日、NHKの「スタジオパーク」に出て、その後CW・ニコル氏と新宿ホテルで歓談。そして昨日は主として母の法要の準備。勿論その間電話やFAXがいくつも入ったから、誰といつ話をしたのかも良く覚えていない。TV出演を告知しなかったため、私の本の担当編集者のうち3社ぐらいの人や、私が何かの折に話し、当然知っていると思っていた人達が何人も見逃していて、「え〜っ!知らせて下さいよ〜」とかなり苦情を言われた。
 視聴率1パーセント以下の「人間講座」ならともかく、場合によっては10パーセントに迫るといわれる「スタジオパーク」への出演は、あまり気がすすまなかったので、ことさら告知はしなかったのだが、数百万人の人の目に触れると良い事もあるもので、この番組の放映中に私が最も愛読している武術書『願立剣術物語』の著者服部孫四郎についての情報が寄せられ、昨日は鉄や“たたら”について大変な情熱で取り組まれている“くろがね会”の朝吹美恵子女史から長文の感想が寄せられ、私も数年前からお名前は存じ上げていたから、ついつい電話してしまい、思わず深夜の2時間がとんでしまった。
 今までにも、まだ直接会ってもいない方と電話でお話しして大いに盛り上がった事はあるが、2時間というのはちょっと記憶にない。朝吹女史は私がかつて思い描いていた現代最も活躍出来る女性の要件5つをすべて兼ね備えられているようである。その5つの要件とは、まず世の中と関わる積極性があること。しかもその積極性はいわゆる社交性があるとか単に売り出しが上手いといった事ではなく、自分自身のしっかりとした思い、感性があること。そうした感性はやはり何らかの芸術を行なうか、深く関心があることで養われる。
 奇人・変人という人とも付き合える度量の広さがあると同時に、権力や金銭による介入には屈しない強さと美意識があること。理科系の知識に対する素養があるか、少なくともその原理を学ぼうとする積極性があること。(現代は理科系の知識が昔に比べれば女性の間にも広く普及していてもいい筈だが、現実にはステンレスの板とトタン板とでは、その錆にくい原理がどう違うのか、それを知っている人、あるいはその違いを聞く事に興味を覚える女性は極めて少ない)、身体を通した何らかの技の追求をしていること(朝吹女史はフリークライミングをされているという)の5つである。
 こういう人物は一見超常的に見えることを無碍に排斥もしないが安易に信じ込みもしないバランスのいい精神を持たれている。ただ、こうした稀有な要件をすべて満たした方は、きっと人生の税金をいろいろと払われていることであろうし、多くの人と相性がいいという事もないと思う。話が盛り上がった私との間でも、より深く話し込めば価値観や美意識の違いも出てくるだろう。例えば、昨夜は一気に盛り上がったので話題にはしなかったが、私が6年前に凄まじいショックを受けた映画『もののけ姫』に対しても、朝吹女史は私とはおよそ違った感想を持たれたようである。何故かというと、以前『バウンダリー』誌で朝吹女史の『もののけ姫』の感想を読ませて頂いた事があり、その折、将来的にこの方と出会った時、どういう御挨拶をしたものかと考え込んだことがあるからである。
 しかし、人の考え方というのは皆違うからこそ個々人が存在している理由もあるわけで、大いに共感出来る人と共感出来ない部分がハッキリした時、その事を巡っての話は時に大きな気づきや精神的進歩をもたらすような気がする。従って、今後朝吹女史とは、より突っ込んだ意見交換をさせて頂き、私なりに今という時代にどう関わるべきかを見出していきたいと思う。

 今、人はいろいろな意見を持っていると書いたが、私の「スタジオパーク」での実演で、うつ伏せに四つん這い状態になっている人間を仰向けにひっくり返す“平蜘蛛返し”に関して、ある方から「あれは力のモーメントを応用したありふれた原理によるもので、『自分でもその原理が分からない』という発言は、ことさらに自分のやっている事を神秘化し、大衆をあざむくやり方ではないか」との御意見を頂いた。
 私は、私自身その原理が分からないから「分からない」と言ったまでで、出来る事なら解明したいと思い、現にいろいろな方の意見を聞いているところで、近々宇都宮大学工学部の制御論の専門家の方に詳しく実演し解明すべく御意見を頂く予定である。
 ただ、現段階で言えることは、あの技は相手の片足を軽く持ち上げて崩す「抱え上げ」から、次に座り込んで私の片手にしがみついている、私の体重より遥かに重い人物を持ち上げる技「一本釣り」を経て進展してきた技であり、回転技というより持ち上げ技である。
 また、“平蜘蛛返し”がありふれた原理による技なら、なぜアマレスや柔道の専門家が今まで見つけなかったのか不思議である。あの技が出来るようになってから、アマレス、ブラジリアン柔術、総合格闘技など寝技系の武道・格闘技のコーチ、選手など20人近くの人々に私の技を体験してもらっているが、例外なく「こんな返し方は今まで体験したこともない」と言われている。
 したがって、この技がありふれた原理で、誰もがちょっとしたコツで出来るものなら、アマレス等では福音になるのではないだろうか。(尤も多くの人が出来るようになれば、知っている人だけが得をするということもなかろうが)もちろん、私にとっては現在それほど難しい技ではなくなっているから、これを会得出来る人も当然出てくると思うし、現に以前から私と一緒に稽古をしている何人かは遠からず出来るようになると思う。しかし、私も含め、出来るようになった人も現段階では両足の裏を同時に上方へ引き上げる事で、アソビをとって一瞬で力を出すということを行なうだけで、回転運動をしている意識はないと思う。(それが結果として回転になるのだと言われれば私の無知を詫びるしかないが・・)とにかく「平蜘蛛返し」がありふれた原理による平凡な技であっても、現段階ではこれに驚き興味を示す人は少なくないと思うので、「あんな動き、別に素人を驚かすだけだよ」と思われる方はすぐ会得され、大いに実技として活用して頂きたい。
 あらためて言うが、私は、私が現在行なっている技は足を完全に踏ん張ったひどく居ついた悪い動きに比べればまだマシな技であって、まだまだ悪い動きの技であり、人々の御参考にはなっても模範となるような動きではない。これは木刀の三方斬り等にも言えることで、太刀行きが早いという事は場合によっては「それがどうした」と言われてしまう動きであり、よりレベルの上の太刀の運用とは遅くて早い、早くて遅い、動かないからもっと早い等々さまざまなレベルやランクがあると思われる。したがって、私の動きは「ああ、ああいうこともあるんだな」と横目で見て、ちょっと参考にされるぐらいがいいのではないだろうか。現段階の私は「これが正しい動き」とか「いい動き」とは、とてもとても口に出来ない状態なのだから。
 ただ、現代はあまりにも身体を使えない人が多く、私程度の動きでも現代では珍しがられようである。現代の若者の不器用さ、道具の扱いの無知さに関しては、12日の夜歓談させて頂いたCW・ニコル氏も深刻な問題として指摘されていた。ニコル氏とは今後こうした問題の改善といった事も含め、フィールドで何かご一緒させて頂く事もありそうである。御縁のあったことに心から感謝している。

以上1日分/掲載日 平成15年11月15日(土)

2003年11月18日(火)

 14日と15日のわずか2日間の間に、個人的に会って話をした人の数は少なくとも今年最高だろう。そのため、12日以後頂いた名刺の数も、名刺でトランプが出来そうなほどになった。
 この2日間のうち、まず14日は池袋コミュニティカレッジの講座と、その直後駆けつけた新宿文化センターでのヴッパタール舞踏団の公演で様々な方々にお会いしたからであり、15日は再度伺ったヴッパタール舞踏団での公演と、その後上京中の大阪の精神科医名越康文氏らと共に新潮社の方々とお目にかかってから身体教育研究所へ伺って、というか伺う途中で何人もの方々と会いながらという状況だったからである。
 あまりにも多くいろいろな方々とお会いしたので記憶も霞んでいるが、この2日間で視覚的に最も強烈な印象として残っているのは、15日にヴッパタール舞踏団の公演終了後、ピナ・バウシュ女史とその団員が舞踏家の大長老、大野一雄翁と会われているシーンだった。
 車椅子で既に言葉も自由にならない様子の大野翁の表情としぐさは、眼前数メートルで間違いなくナマで見ている筈なのに、まるで凝りに凝って撮影された、それも古代エジプトか何かを舞台とした映画の1シーンを見ているような圧倒的迫力があった。なにしろ、その交流が終わってからロビーを車椅子で進まれる様子に初めて接した名越氏は、「もう、こう近づいてこられるだけでも身体中が総毛立ちますねえ。男で抜身のままで、あそこまで存在感のある人がいるんですねえ」と感嘆の声をあげていたくらいである。
 尤も、この日は夜になって訪れた身体教育研究所での野口裕之先生の「近代国家の成立と文化の衰亡」論がいつにも増して火花が散るほどの激しさで、「見えすぎる人間」というのは本当に生き続けるだけで、どれほど大変だろうかとタメ息が出た。
 この日は私が古くから知っている科学者のN氏を同行した事も野口先生の業火に油をたらした結果になったのかも知れないが、科学の現状にいろいろと疑問を感じ始めているN氏にとっても忘れられない一夜となったようで、会談は延々5時間以上に及び、研究所を我々が辞した時は既に午前3時近かった。

 そして16日、17日と今日18日、再び私は土石流のような問い合わせの電話やFAXや手紙、それに校正ゲラやら予定の確認の書類等々と闘う日々。その間、話やら稽古やらで人が尋ねて来るのだが、とてもの事片付けが間に合わなくなって、まるで資源ゴミ回収の仕切り場のような状況となってしまった道場で、体を動かしたり接待するハメになっている。(流石にもうこれ以上悪化させたくないと痛切に思う)
 したがって、この随感録も本当に時間を盗むようにして書いている有様である。お蔭で未だに自分が出た12日放映の「スタジオパーク」のビデオを見ていないし、つい最近刊行となり版元から送られてきた多田容子女史の小説『甘水岩』(PHP刊)もまだ読めないでいる。そのため、この小説の最後の結果がどう変わったのか、まだ知らないのである。この作品は9月に四国で1人山に籠った折、校正刷りを憑かれたようにして読んだだけに、時間を得て最後のところを読むのが楽しみである。

 確か、この随感録で読んで下さる方々にインフォメーションしたい事がいろいろあったと思うのだが、今思いつく事は、昨日送られてきた『壮快』誌にナンバの特集があり、私の記事も載ったのだが、特集の中でナンバの実践により目が良くなったり心臓病の症状が軽くなったり等、すでに色々効果がでているとの体験談がいくつもあり驚いたという事と、11月20日に龍谷大学でシンポジウムがあり、私も招かれて話をするという事、それから11月22日の四国の稽古会は急に入れた予定のため、まだ人数に余裕がありそうだという事の3つである。
 23日は、この四国から東京の千代田区での会に直行の予定だが、こちらは既に人数オーバーで締め切ったとの事である。(これらのシンポジウムや会についての情報は、詳しくは告知板に出ていると思うので、御関心のある方はそちらをご覧頂きたい)

以上1日分/掲載日 平成15年11月19日(水)

2003年11月23日(日)

 いま、関西・岡山・四国での全ての日程を終え、東京への"のぞみ"の車中でこれを書いている。ただ、今回の旅は、これで全てが終わったわけではない。東京駅には光文社の編集者O氏が待っているだろうから、打合せをしながら神田の千代田区立総合体育館へ移動し、ここでほぼ月1回のペースで開いている術理説明会で、実演と解説を行なわなければならない。従って帰宅は深夜となるだろう。
 今回の旅行もめまぐるしく場面々々が変わって忽ちに日が経ったという感じがするが、同時に旅の最初に訪れた龍谷大学でのシンポジウムは3週間も前のような気がする。なにしろ今回の旅は最初から様子が違った。龍谷大学へ向かうべく京都駅に降り立つと毎日放送のスタッフに迎えられ、ホームを歩いていても電車の中でもかつてないほど人に観られる。NHKのスタジオ・パークに出て以来、以前とは違った雰囲気を感じてはいたが、それがこの京都駅では新宿あたりを歩いている比ではない。この理由は後ほど分かったが、ここまで人に見られたのは出迎えて下さったスタッフのうちの一人であるNアナウンサーが関西では相当に顔を知られた人物だったからである。
 龍谷大学に着くとシンポジウムで御一緒する内田樹神戸女学院大学教授、岩下徹京都造形芸術大学助教授、司会をして下さる亀山佳明龍谷大学教授と初対面の御挨拶をする。今回のシンポジウムは一言で言って、今まで私が経験したシンポジウムの中では最も面白かった。岩下助教授の事は噂では聞いていたが、その舞踏の動きの気配の無さには何事かを示唆された思いがしたし、内田先生が加わればつまらない話を延々と聞かされる事はないから、亀山教授の司会進行もそうした場の雰囲気に乗り、参加者全員の興味に沿ったいい流れだったと思う。
 私は、と言えば、この日は前の晩午前2時半頃に寝たのだが、ついつい4時半に起きて山積みする用件と向かい合いながら仕度をして家を飛び出してきたため、「体が持つかなあ」と不安だったが(2日ほど前から体調も落ちてきているので)、そういう時は却って長くぐっすり休むと体の不調の芽も育ててしまうようで、シンポジウムでは実技を解説し、その後休憩時間もシンポジウム終了後も熱心な学生や一般参加の人々の質問や体験希望の要請を受けて、話をしたり実演をしているうち体調は尻上がりに良くなってきた。それにしても、このシンポジウムとその後の打ち上げパーティーに出てから名越氏のクリニックに寄って、深夜一緒に名越宅に帰って2時頃まで話し込んだのだから、我ながらよく体がもったと思う。

 翌21日は名越宅を出て、すぐタクシーで梅田近くの毎日放送に向かう。放送局の直前で、関西における私の荷物持ち兼写真係を志願して務めてくれている白石氏と、昨日京都駅まで出迎えてもらったYさんが待ち受けていて、この2人に荷物を預け、私は放送局の玄関へ向かう。玄関前では関西では広く知られた人物という毎日放送のアナウンサーで役員である角淳一氏が待ち受けておられ、一緒に社屋へ入る。その後、社屋内の茶室でインタビューを受け、その後地下の和室で、柔道2段でアメフトなどの経験もあるという毎日放送のOディレクターを相手に実技の解説を若干行なう。その後、角氏は番組があるため抜けられたが、N氏とYさんが残られ、白石氏ともども昼食に御招待頂いた。
 今回の毎日放送行きは、NHKの「人間講座」を見られた角氏から私に是非会いたいという強っての要請を頂き、その件で再度、再々度代理の方が先月末に大阪であった朝日カルチャーセンターの講座に訪ねて来られたり電話を下さったりして、民放ではきわめて異例の事ながら、当初の予定を全面的に組み換え、とにかく会って話をしたいと申し込んで来られたため、私もさすがに気持ちが動いたのである。ひとつには、私に10回以上も電話でこの件についての要請や予定変更について連絡を入れられ、その度に懇願されるYさんのひたむきさに根負けしたというか、ここまで一生懸命な人を無視するのはさすがに心が咎めたのである。
 角氏はお会いしてみると流石に様々な方面にアンテナを張っておられる方であり、私としても話していて通りの悪さにいらつく事が全くなかったから、ついついいろいろと喋ってしまったのだが、結果は角氏の私への関心の度合を更にアップさせてしまったような気配もあり、さて、さて、どうしたものかと思いながら、その後岡山へと向かった。
 岡山へは光岡英稔師と対談本の事で寄ったのだが、この日ハワイから帰られた光岡師との話は、光岡師にも旅の疲れがあったため午前2時くらいでお開きとなったが、その探究心の純度は一層あがっている印象だった。今回、岡山では岡山駅前で自作の鍛造刃物を販売されていた三輪刃物工場の三輪氏と知り合い、ヤスキの白紙1号を水焼入れで自信作の鉈が出来るとの事だったので、両切刃の鉈や包丁を一振ずつ購入した上、かねてから私が考えていた折れ刀風の特殊鉈を注文してしまった。

 22日は昼近くまで休み、その後数時間、光岡師と対談の原稿づくりに熱が入った。その後、四国へ向かい、守氏の迎えで中学校の柔道場での実演と解説を行なったが、開始前は明らか疲労が溜まっている感じだったのが、いざ体を動かし始めるとドンドン楽になり、遠くは愛知、長崎辺りから参加された方々もおられたので、会場を提供して下さった中学校の先生の御好意もあり、終了時間は予定をかなりオーバーしてしまった。

 しかし、今回の旅は稽古といういわば覚醒剤を打ちつつ体調を持たせている観もあり、今夜の稽古、明日の稽古、明後日のヴッパタール舞踏団へのワークショップ、27日のビデオ撮影、そしてその後も次々と入っている予定にどこまで体力が持つか不安がない訳ではない。しかし、ここまで来たらもう駆け抜けるしかないだろうと考えているところである。

以上1日分/掲載日 平成15年11月26日(水)

2003年11月27日(木)

 25日はピナ・バウシュ女史の率いるヴッパタール舞踏団の団員の方々へのワークショップの為さいたま芸術劇場へ。はじめは通訳が入りながらのもどかしさがあったが、後半は一緒に体を動かしつつ、かなり打ち解けたものとなった。体を左右に開かない膝行・膝退などは、現代では日本人も出来る人は少なくなってきているが、ダンスで日頃から鍛えている人達はさすがに違っていて、それなりに動ける人が何人もいた。
 そろそろ終了時間も迫ってきた時、何か舞踏に関係の深い動きをしてもらえないだろうかという注文が出た。ピナ・バウシュ女史はもとより世界中から集まっている20名以上の優れた踊り手(欠員があると応募してくるダンサーは募集人員の200倍という)の眼の前で動くとなると、なまじ意識のある動きではすぐ見抜かれてしまう。そこで、数年前銀座のソミド・ホールで舞踏の人達とコラボレーションを行なった時のことを思い出し、正座して予備運動を行った後、一気に自分の意識的動きを捨てて私自身の内側から溢れ出る動きに我が身を任せてみた。
 数十人の視線に囲まれ、私はかつてなかったほど自分の意識を捨てることに集中することが出来た。どのように動いたのか微かな記憶しかないが、私の体が数匹の独立した生物がひしめきあうように動いていたような気がする。時間にすれば2〜3分くらいだと思うが、最後に気合をかけて我に返った後、体調がまるで変わっていて、その後何時間かワークショップが続けられそうだった。終わりを告げると拍手が鳴り止まず、アンコールを促されたが予定の時間が来ており、もし再度私の内面に深く集中すると戻ってくるのが大変そうだったので、これを以って終了とした。
 終了後、ピナ・バウシュ女史からは丁重な御礼の言葉を頂いたので、名刺をその場で書いてお渡しした。その後、我々は引き上げたのだが、気がつくとピナ・バウシュ女史は私を追ってエレベーターのところまで足を運んで下さり、再会を約して別れた。
 今回はダンサーへのワークショップという私としては初めての試みだったが、通訳やアシスタントをしてもらった人達が全員女性という、これまた私としては初めてのプロジェクト・チームで臨むことになった。(初めは通訳1人の予定だったが、アシスタントの志願者が増え結果としてこうなったのである)まあ、どうやら多くの方々に喜んで頂けたようだったので肩の荷がおりた。手伝って下さった方々と私を招くことに骨を折って下さった日本文化財団の佐々木修氏と譲原晶子千葉商科大学助教授にはあらためて感謝の意を表したい。

 26日は片づけのため日を取ってあったのだが、終日電話の大攻勢。特に昼食前は割り込み連続で、電話があまり鳴らずに話し相手は次々と変わるというありさまだった。夜はNHK教育テレビの「人間講座」の最終回が放映された事もあってか、私のホームページのカウンターはあと100ほどで3000というありさまだった。(これは関西の毎日放送で私の事が紹介されたためもあるようだ)
 今日はこれからIACのビデオ撮りだが、その前に片付けがある。とにかく今一番私の心に重くのしかかっているのは片づけ。これを何とかしなければ全ての予定が益々滞ってくる。
 昨日もテレビ出演の御依頼がありましたが、当分の間新しい御依頼が99.9%受けることが出来ない状況ですので、何卒ご理解のほどお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成15年11月27日(木)

2003年11月28日(金)

 昨日はIACの第2作目のビデオ撮りがあり、中村伸一郎氏、高橋佳三氏に協力してもらい、予定を1時間ほどオーバーしたが無事撮影を終了した。ただ、片づけがどうにも追いつかず、最後はIACのスタッフの人達にまで片づけを手伝ってもらって、とにかく無理無理場所を作ったが、そのため私の予定を書いたノートがどこかに紛れてしまい、今日いろいろ探したが発見出来なかった。
 とにかく、もう予定は大幅に超過している。運送業に例えれば、そこらじゅうに積み残しの荷物を残しながら操業しているようなものだ。それでも依頼は次々に来るが、とても引き受けられる状態ではない。そんな中でも、既に約束をしたものや、私自身どうしても惹かれるものには時間を割かざるを得ないから、事態はより一層悪化するばかりだ。

 昨日は又、無理無理入れた用件と入ってしまった用件が1つずつあったが、無理無理でも時間を割いた甲斐があった。ひとつは某大学からチアガールの動きの相談を受けていたので、昨日以外もう予定がとれそうもなかったので、撮影前に何人かで実演してもらったのだが、体の浮きを考える上で具体的課題をもらった気がした。
 夜は、この日大量に資料を送っていただいた黒鉄会(くろがねかい)の朝吹美恵子女史へお礼の電話をし、又々1時間ほどどうにも電話が切れなかった。又、昨日は毎日放送で26日放映された私に関するテレビ番組のビデオが届いたが、司会の角淳一氏の、私の事に入る前の前ふりの長さには参った。(関西の何でもかんでもお祭りにするパワーは全く普通ではない)ナマで出ていたら大変だったとつくづく思った。

 26日は又、NHK教育テレビの「人間講座 古の武術に学ぶ」の最終回の放映があったが、視聴率は1パーセントを超えたらしい。(通常は0.2パーセントぐらいらしい)この回を見たのが最初で最後という方もあったと思いますが、12月の中旬、2夜連続で深夜に4回ずつ計8回全部をまとめた再々放送があるようですので、自分で言うのもおかしなものですが、最初から全部観ておきたいという方はビデオに録っておかれることをお勧めします。なにしろ始まりが午前2時ちょうどで、終了が3時43分という事ですので。なお、日付は12月16、17日ですが、この両日とも日付が変わって間もなくの16日の午前2時、17日の午前2時という事ですから、我々の日常感覚でいえば、15日月曜日と16日の火曜日の夜遅くの放映という事になります。お間違えのないように、当日のテレビ番組欄で御確認下さい。

 予定を書いたノートが見当たらない為、何とか記憶を頼りに別の予定表に新しく予定を書き入れていますが、なにぶんにも最近は混乱をきわめておりますので、12月に私と既に約束をされている方はどうか御連絡下さい。来年1月以降の方もお願い致します。

以上1日分/掲載日 平成15年11月29日(土)

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