2008年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 2001年 2005年 2009年 2013年 2002年 2006年 2010年 2014年 2003年 2007年 2011年 2016年 2004年 2008年 2012年 |
先月の20日すぎから群馬やら東北、関西、中国地方と、ほとんど休みなく回って、昨日3日ようやく帰宅。久しぶりに熟睡したが、お陰で体の節々が痛む。旅行中、緊張していると、寝不足にはなっても体が痛くなることはまずないが、一段落ついて、ホッとして体が弛むと、あちこちが痛むことはいつもの事である。
したがって、その事は別に気にはならないが、気になるというか頭痛のタネが又ひとつ…。それは、先日24日放映された"笑っていいとも増刊号"に関すること。この放映時、私は弘前にいて見てなかったが、知人からの感想等をもらって、まあ私があの場で体験したことが、それなりに編集されてまとまっていたのだろうと、あまり気にならなかった。ところが、この番組が収録されたDVDを出先の大阪で見て驚いた。「力士が押しても微動だにしない」とか、「古武術の真髄を極めた」などという前ふりで私が紹介されている。
ワイドショーなどのテレビが誇大に言いたがる傾向は常態化しているが、『あるある大事典』で多少は懲りていると思ったのだが、なかなか改まっていないらしい。確かに、大相撲の力士相手にやって驚かれた事はあるが「微動だにしない」は大袈裟過ぎるし、日本の武術は現在の私ごときが極められるほど甘い世界ではない。常々私は、私をこの道を極めたという達人扱いする人に対して、「私ごときを達人と言うことは日本の武術をバカにしていることになるのです」と言っているから、この私の紹介文を私が了解していなかった事は、私を知る人は皆承知しているだろうが、私を知らない人には、無用な反発をかったり、無責任な過大評価を持たれたりするだろう。
内容は私が了解したものだったが、その顔となる紹介が私の意図と著しく反したものになったのは、先月半ばに刊行した講談社の本の装丁に続いて今年2度目。2度あることは3度あるというが、3度目はなんとか勘弁してもらいたい。
その「笑っていいとも増刊号」から、2月に続いて今月も私に出て欲しいという話がきた。私が再度出演して、私の誇大な紹介の誤解を解きたいとの事だが、今度はどういう形で私を紹介するのだろう。これは、なかなか難題だと思う。ただ、今回の私の誇大な紹介に関して謝罪の電話をかけてこられたのが、私に今回の「笑っていいとも増刊号」への出演要請をされた金森氏(名越康文氏の所属する事務所i am iの社長)。謝り方で、その人のセンスと力量が分かるというが、その辺は金森氏はさすがだった。この謝罪対応のあり方が、講談社と全く違ったから、先方の話を聞くことにした。
それにしても今日は、2月の末に行った京都であらためて身体教育研究所の野口裕之先生の凄まじさを知ったことを書きたいと思ったのに、こんな事で紙数を奪われてしまった。もっとも隠れ志向の野口先生に筆を止められたような気もするが、とにかく今言えることは、「井桁崩し」以来、16年ぶりの発想の大転換となった「龍尾返し」もまた変化していくキッカケを野口先生から頂いたようだという事である。
しかし、野口先生の凄さを感じるにつけ、様々な面で壊れゆく今の日本を観ていると、幕末、鳥羽伏見の戦いで、慶喜が賊軍となるのを恐れずに幕軍の先頭に立って、薩長連合軍を撃破していれば、日本の近代化も薩長主導よりは緩やかになり、日本の状況もここまでひどくはならなかったのではないかと、しきりに思ったりする。もちろん、いまさら嘆いてどうなるものでもないのだが、最近は何ともせつない事が多すぎる。
以上1日分/掲載日 平成20年3月5日(水)
3日に福山から帰って以来、とにかく細々とした用件が果てしなくあって、精神的には、まるで手足を刺網か何かに絡めとられているような気がする。細々とした用件というのは、仕事上のものと、私的なものではあるが放ってはおけない用件などで、それらが大袈裟ではなく100以上はあり、しかも日々増殖してきているから、とても全部には対応出来る筈もないのだが、例えば東欧に留学しているS君から手紙を貰ったりすると、どうしても返事を出したくなって、メールを返したが、うまく届いていないのか返信がなかったりすると気になって、別の通信手段を考えたりして、そのため何件かの用件が結局出来なくなる。
その上、昨年の11月以来の家の改装で荷物を整理している事もまだやりかけで、時々は、集中的にやっているが、とにかく次々に入ってくる連絡や問い合わせに中断ばかりしているから、中々はかがいかない。
考えてみると3年前、休業宣言して、本当に2ヶ月くらいは休業したが、あの時は休業出来るくらいの状態だったのだと思う。今は、いま入ってくる仕事を全部止めても、すでに入っていた仕事をある程度やりくりするだけで数ヶ月かかってしまうだろう。つまり、休業していなければ必死にやっていても、どうしても手が回らず、「申し訳ありません」と心中で詫びつつ日々が送れるが、休業すると、きっと今ならやむを得ず落ちていっている用件もやろうとするだろうから、結局休業にならないという事である。困った性格だが仕方がない。
私の心境に一大変化でも起きれば、また流れも変わるだろうが、すくなくとも当分は、今のままのようだ。
そうなると、これから私に仕事を依頼される方は、現にお引き受けできる数が益々減ってくると思いますので、なにとぞ御了承下さい。
以上1日分/掲載日 平成20年3月8日(土)
昨日11日、山積する用件に無理やり一区切りをつけ、2キロほど離れた公園に行く。ここは、以前にもこの随感録で触れたが、武蔵野の面影をそのまま残した広大な区域があり、私が幼かった頃を思い出すことが出来る場所である。
家を出た時は5時をまわっていたが、いつの間にか日が長くなっていて、葉がまだついていないコナラやクヌギの梢に赤い夕日がゆっくりと落ちていくところだった。
昔の景色は昔の事を思い出す。そして、その昔と現実のギャップも…。
歳月は人を変えるというが、かつて盟友とまで思った人と、いつしか疎遠になり、以前なら決してそんな風にはなるまい、そんな世界には嵌るまいと思っていた、その世界にその人が嵌ってしまった時、どう振舞ったらいいかは本当に難しい。まあ、その人の影響がごく僅かであれば「お好きにどうぞ」で済むが、現在、少なからぬ影響力が出ていて、多くの人達も巻き込まれるとなると、その人を広く世に紹介する一端を荷った者として、黙している事も無責任に思われる。
そして、私は私なりの選択をしたが…。
せつない思いはどうしようもない。かつて私が深く尊敬し、恩を受けた人と袂を分かった時の、あのどうしようもないせつなさを久しぶりに思い出した。生きていると、いろいろな事に出会うものだ。
昨日は、新宿で桜井章一雀鬼会会長と名越康文名越クリニック院長の、単行本のための対談を聞かせていただく。
人の話の聞き手としては稀有な才能のある名越氏によって、いままで我々が知ることが出来なかった桜井会長の才能の最も本質的な部分を伺うことが出来たのには感動した。それは、桜井会長が学生時代、成人してから初めて観た麻雀で、そのルールをその場で憶えられたという伝説的エピソードの真相である。
今日伺ったところによれば、それはルールを憶えたのではなく、麻雀とはどういう流れ、どういう動きをするものなのか、「その道が観えた」という事だそうである。つまり、「この動物はどういう生態をしているのか」という事を、まず感じ取り、その後、その動物の生態を書いたもの(即ちルール)を知って納得されたという事らしい。
名越氏共々、まさに息を呑んでこの話を伺ったが、雀鬼こと桜井章一という人物は、麻雀に対するファーストコンタクトから普通の人間とは全く違っていたという事である。
あらためて桜井章一という人物の凄さと、技芸を学ぶという事の在り方について深く深く考えさせられた。
以上2日分/掲載日 平成20年3月13日(木)
昨日、新潮社から最新刊の『ほんとうの環境問題』が届く。著者は私もよく存じ上げている池田清彦、養老孟司の両先生で、現在の「地球温暖化問題」について鋭い切口で、その温暖化を問題にする事こそ問題だと論じられている。詳しくは本書を読んで頂ければ分かることだが、この温暖化問題の科学的根拠というのも、かつて動物性タンパク質を十分に摂らないと、たちまち栄養失調に陥ってしまう如き言説で、その必要性を強調していた栄養学同様、流行り廃りがあるらしい。確かに私の記憶でも1980年代頃までは、これから地球が寒冷化するので大異変が起こるといった事を説いていた本をしばしばみかけた。それが、どう間違っていたかの説明もないまま、今度は温暖化である。
確かに氷山が後退し、温暖化の症状は出ているようだが、約5000年前の青森の三内丸山の縄文遺跡から、当時栗を栽培していたらしい形跡が出ていたことを考えると、当時その辺りの気温は現在よりも何度か高かったと考えられるという。過去に地球は何度も熱くなったり冷たくなったりしているらしいから、当然変動は起きるだろう。
私が思うに、いまの地球が温暖化する、といっていろいろ騒いでいるのは、人類に潜在的な罪の意識があるからだと思う。特にプラスチックを始め、さまざまな化学物質をつくり、それらの処理に四苦八苦し、現に南の島など、そうしたゴミが大量に流れ着いて、海岸をひどい状態にしている様をみれば、真っ当な神経なら誰もが心が痛むはずである。
しかし、便利さに慣れ、とにかく新しいものを作ることに向って自転車操業をしている人類は、こころを痛めつつも、その進歩に絶対にブレーキはかけられないのだろう。
池田・養老両先生も、「人間はいったんシステムを作ってしまうと、そのシステムを維持することばかりに目が行ってしまい、そもそもそれが何のためなのかという事も分からなくなってしまう」と論じられている。
まあ、私なりに感じる問題の本質は、以前から私が言っていることだが、けっきょく人類は次の2つの方向のどちらを選択するかを問いかけられているように思う。その一つは、科学が超発達して、一々スイッチを入れなくても「こうしたい」と思えば、それを機械が読み取って、日常の細々とした事すべてを寝たままでもやってくれるロボットを作って、それに依存することか、あるいは、元気でよく動く身体を使って、薪を割って飯を炊いて生活することである。そのどちらに本質的な生きる喜びがあるかという事と、本当に向き合って考えていかないと、これから先、人類が抱えている根本的後ろめたさを紛らわすための姑息な法律やキャンペーンが益々増えて息苦しくなるばかりであろう。
しかし、いまの流れを止めることは大型台風に向ってハングライダーで飛ぶようなものであろう。何か身に沁みてわかる切実な"ダメ"がなければ、大きな方向転換は難しいだろう。
その点、昨日、数時間にわたってお話しさせて頂く機会のあった身体教育研究所の野口裕之先生が、以前から主張されている「食品を冷凍冷蔵することの禁止」というダメ出しのアイディアは、確かにインパクトがあるだろう。まあ、現実にはほぼ100パーセント不可能な事だろうが、万が一実現すれば、昔のような素朴な食生活が蘇り、日本の食糧自給率も上がり、高い穀物を食べさせて家畜を育てるという大変な無駄も自然となくなるだろう。
しかし、あらためて考えてみると、いまも述べたように、このアイディアは現代では、ほぼ100パーセント不可能だが、ほんの数十年前まで全ての人達が、それまでずっと冷凍庫も冷蔵庫も無しでやってきていたのである。
あらためて、人間とはいったん得たものを手離すのが、いかに難しいかを思い知らされる。
以上1日分/掲載日 平成20年3月17日(月)
19日に綾瀬の東京武道館で行なったIAC主催の講座は、私が今までで行なった講座の中でも、ちょっと記憶にないくらい困難な進行だった。つまり、どう私の技について解説をしながら進めたらいいのか、何度も詰まったからである。
困ったといえば、約3年前の4月に新潟で韓氏意拳の韓競辰先生の手に触れた時、大変なカルチャーショックを受け、その直後の私の講座では、自分がこれからどういう動きをしたらいいのかが見えて来なくて、当分講座等は休もうかと思った事を覚えているが、19日の綾瀬の場合は、そういう事ではなくて、次々とあまりにも今までとは違う動きのアイディア(それも抽象的なもの)が湧いてくるので、それをどう説明していいのか、自分でも整理がつかなくなりかけてきたからである。
この様子では、これから私の技が、どのように展開していくのか、まったく分からないが、前腕、上腕、脚足それぞれが独立して独自に動き、それを体幹部がバランスよく把握していく動きは、ちゃんと研いでいく必要はあると思う。そうしないと抽象的な感覚の追求は面白いだけに、こればかりをやってしまう恐れがあり、そうなると根本的な何かを見失う恐れを感じるからである。
しかし、これから中々口に出して技を説明する事が難しくなってくる事は避けられないと思う。
「惜しみて言わざるにあらず いたずらに人を惑わさぬ為なり」というようなことを古人も言っていたように思うが、私もその言葉を今までで一番身近に感じている。
しかし、実技を行いながら術理の解説をすることを仕事としている以上、何も語らないわけにはいかない。とはいえ、人に解説するのに適した言葉の道筋がみえてくるまでは、あまり語らない可能性もあると思う。と言いながら、自分自身の中を整理するために、大変抽象的なことでも言ってしまうかもしれない。
このように、今もなお混乱は続いている。
いずれにしても、私の講座等に来られる方は、いままでの常識的な固定概念を崩そうとしている私の試みそのものを、何かの御参考にして頂ければ幸いです。
以上1日分/掲載日 平成20年3月22日(土)
今年の桜は不意討ちだった。22日、川沿いの桜並木を見上げ、「ああ、もうそろそろ咲くかな」と思った翌日、もうすでに三分咲きの桜を何本か見ることになった。今週末は、すでに散りはじめる木もあるだろう。
この日、新しい人生の門出をした人を2組、見送った。そして翌日は、今までの人生に一区切りつけようかという人からのメールが…。
「此の伝は流るる水の如く少しの時も止むことなき剣術ぞ、たとえば光陰の移り行くが如く、草の萌え出るが如く、須臾も止まることなし」という『願立剣術物語』の巻頭の言葉が、この頃しきりと思い浮かぶ。
以上1日分/掲載日 平成20年3月27日(木)
先週は1日おきぐらいに、いろいろと濃い日々を過ごした。
25日はPHP本社で名越氏との対談本の校正の照合作業。27日はアルタ、筑摩書房、銕(てつ)の会と3ヶ所まわる。筑摩ではM君と本づくりのための対談だが、半分は稽古研究をやっていた。筑摩書房から提供してもらった2階の応接室が、江戸通りから丸見えだったため、時々通りの向かい側で、しばしば人が立ち止まってこちらを眺めていた。
それにしてもM君の感覚の良さと理解力は抜群で、説明していて何ともいえない快感を覚える。さすがに将来の就職のためにではなく、人間とは何か?この世界はどうなっているのか?という人間にとって最も本質的な問いかけを探究するために、まず東大の文科U類に入ってから、ロボット等の研究の為に工学部に入り、ここを数日前に卒業して、4月からは、数学科に新たに進むという、東大でもちょっと前例のない経歴を作りつつあるだけの事はある。彼との本がどういう展開となるかは大変楽しみだ。
その後は、鶯谷駅近くのおでん屋、満寿田での銕(てつ)の会へ。今回はゲストに砥石の研究を専門にされているというT先生を囲む会というので、無理にも時間を作って参加した。興味深かったのは、天然砥石の硬度が焼きの入った刃物の鋼と同じ程度か、場合によってはそれ以下なのに、焼きの入った刃が砥げるという話。まだ想像の域を出ないが、すぐれた砥石には化学的作用もあるのではないという話だった。
また、古来から中国では、都は砥石の産地から決して遠くないところに作られたという事。京都に最上の合わせ砥が出たのは、逆に砥石が近くに出るので都を作ったといえるかもしれない。
ちょうど先週の土曜日、刀工であった一貫斎起正作の鉋をT氏から頂いたばかりだったので、これらの話は一層興味深かった。刃物に関する話を聞いたり、したりしていると、本当に時間の経つのも忘れてしまう。
そして先週の最後、つまり昨日は最も濃い、というか衝撃的な日だった。この日は桜井章一雀鬼会会長の雀荘「牌の音」の二十周年記念の催しに招待して頂いたのである。一部では鍵山秀三郎イエローハット相談役、名越康文・名越クリニック院長、作家の林田明大氏と私が話をさせて頂いたのだが、二部になって牌の音の歴史を振り返る出し物や映像がいろいろ紹介された。
そして、それらすべてが終ったのは、開始から7時間以上経った10時過ぎだったが、終ってみて、いままで言葉の上では散々いろいろ語られていた桜井章一という人物の、その例えようのない孤独さ、凄絶さに、あらためて打ちのめされたような状態になってしまった。どういう事かというと、あのレベルまで行った人が、現在多くの人と交流し、さまざまなジャンルの人達からアドバイスを求められる立場になって、それでも自分を失わず(つまり自分を仰ぎ見ようとしてくる多くの人達の上に君臨して、特別に教えを施すという事にならないで)、何ともいえない(近いのか遠いのか分からない)間合で、それなりにそれぞれの人達にアドバイスを与えられているという姿に、私も含め、桜井章一という人と少なからずお付き合いさせて頂いている人間は、ある程度慣れてしまっていて、つい、この人がどれほど深い孤独を抱え、その鬼の感覚と世間一般の価値観との折り合いに、余人にはとても分からない苦労をされているかを忘れてしまっているのではないかという事に堪らない、せつなさを感じたという事である。
いや、もう少し正確に言えば、一般人には分からないのだから、忘れているのではなく、分かり得ようもないのである。
といって、唯々その凄まじさに恐れをなして近づかなければ、桜井会長にもっと辛い思いを背負わせてしまう事になるだろうから、「もっと敬意を払って接するべきだ」と言っている訳でもないのだが…。
本当に言葉に窮してしまう。
ただ、古人の「それ言う者は知らず、知る者は言わず」という言葉通り、その信じ難いほどの超絶的能力について桜井章一は、その核心部分については何も語っていない、いや語ることが出来ないのだろうと、あらためて思った。
この日、朝は久しぶりに頭痛がして体調が悪かったのだが、そんな事などとうに忘れて、春の夜、できることならずっと歩いていたいと思った。
以上1日分/掲載日 平成20年3月30日(日)