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28日から4泊5日の京都での予定をすべて終えて帰宅。しかし今回は半月以上もずっと旅に出ていた気がする。いや旅というより、ある期間京都でしばらく暮らしていたと、思えるくらいにいくつもの極めて印象深いことがあり、帰りの最終近くの、のぞみ52号に揺られながらやや呆然としている。
まず、身体教育研究所の野口裕之先生の天才性とアバンギャルドぶりにはますます驚かされる。「技術体系とは、自分の嘘をどう暴けるかがなければ意味がない」という舌峰の鋭さには感嘆。 さぞ耳の痛い人がいるだろう。いや、しかし残念ながら耳が痛いと感じる人はまだいいほうで、そう聞かされても何も感じない人の方が多いかもしれない。それにしても「天才なんてなるもんじゃない」と、身近に野口晴哉という大天才を見てこられ、天才の、その外れることができない人生の孤独と淋しさがどれほどたいへんかを流々話されていた。(その流れで、桜井章一雀鬼会会長のことについても触れられていた。)しかし、我々から見れば、自分は天才とは無縁と断言される野口裕之先生も紛れもない天才であろう。
裕之先生が、これ以上淋しい思いをされることはもちろん私の望むところではないが、天才か否かは、天才ではない者が決めることで、裕之先生が天才でなかったらあそこまで先代の晴哉先生の作られた体系から似ても似つかぬという程の驚くべき展開をされないだろう。また、裕之先生以外で裕之先生の話されていることを説得力を持って他の人々に伝えることはとてもできないというところにも裕之先生の天才性がある。
そしてその驚きもさめやらぬ10月30日、今度はまた驚くべき人に出会ってしまった。
初対面で5分と経たないうちに「この人と共著をだしたい」と強く思ったことなど、私の人生で初めてである。なぜかといえば、根拠不明な、"科学的"という言葉で現代人の多くが事実を見失っていることを、この方と共著をだすことで、「科学的とは何か」ということを根底から検討することができると思えたからである。
あまりに感動したので、31日はご自宅に伺い、3時間ほど色々とお話を伺った。その感動のおかげもあり、また多くの方々の熱気にも支えられ、今日の稽古会では28日以来の疲れも感じないほど身体が動き、私自身いくつかの気づきもあって、実りある会となった。世話をしてくださった方々には、改めてお礼を申し上げたい。
以上1日分/掲載日 平成20年11月2日(日)
1日の深夜に京都から帰宅して、たまっていた郵便物を整理していると、午前3時くらいになり、慌てて寝る。
2日は日本テニス学会へ。3日は郵便物の整理と原稿書きをと思ううちに、青森から滋賀への帰宅途中の高橋佳三氏が来館。1日にチラッと京都で会ったが、最近の技についての検討もしたいと思っていたので、同行の柔道家のK氏共々、しばらく技の検討に時を忘れる。またいくつか新しい技を創った。
そして、この数日間、先日京都で出会ったO先生とM君を、メールや電話を通して引き合わせるなど、O先生との共著に向けての下準備を進めていたので、4日締め切りの依頼稿が1週間以上も止まったまま、今日やっと書き上げる。
それにしても今回出かけている間に、私が関わった雑誌が3誌も届いていて驚いた。まず、私が「ほころび」という連載を始めた『Re:S』(りす)誌10号。それから私のロングインタビューが載った『教育ジャーナル』12月号。それから、介護のことにつき、また先のテレビ番組『ジキル&ハイド』で感じた大きな疑問について、当事者の一人岡田慎一郎氏に手記を依頼し、それを載せながらメディアにおける科学の取り扱い方に苦言を呈した『寺門興隆』11月号。
『Re:S』誌は、藤本編集長を筆頭に志のある人達が丁寧に作った良心的雑誌の雰囲気があふれている。御関心のある方は是非お買い求め頂きたい。
それから今日、『スタジオパーク』(NHK)に出演の精神科医、名越康文氏との共著『薄氷の踏み方』(PHP研究所刊)は装丁もほぼ決まり、あと10日ほどで見本本が出来るとのこと。20日頃には書店に並ぶ予定である。
以上1日分/掲載日 平成20年11月5日(水)
深まりゆく秋が実感できる頃になってきた。空気が冷え、黄色い落葉を見ていると、何故か無性に2年前に行ったパリが思い出されてくる。
ひとつは、今年も今月の末頃から行く予定だったからかもしれない。しかし、夏頃、先方から日程を1週間ほどズラして欲しいとの要望が入り、一度はいろいろ考えたが、その時すでにその後の日本での予定を入れていたので、今年のパリ行きを断ったという経緯も、どこかで、ひっかかっていたのかもしれない。
しかし、断った時は、生活習慣も違う、言葉もまるで通じない異国行きがなくなってホッとしていたのに、それが今になって、なぜこんなにも思い出されてならないのか、実に不思議である。
あの、ほとんど黄色の葉ばかりのパリの街並みの紅葉。マロニエの街路樹、そして独特なホテルの匂い。それらが堪らなく懐かしいのである。
ひとつは母の思い出もあるのかもしれない。英語と仏語は不自由なく、よくフランス人を案内して日本国中を旅し、六十代の頃は帝国ホテルやホテル・オークラのシェフなどを対象としたフランス人シェフの料理講習会の通訳をしていた母は、フランスがひときわ好きで、フランスから帰ってくると、本当に楽しそうにフランスでのみやげ話を家族にしていた。その母の命日が近づいている事も、フランスが強烈に懐かしく思い出される理由のひとつかもしれない。
しかし、昨年の秋は、こんなにもフランスを懐かしく思い出したりはしなかったから、やはり人生には、計り知れない縁というか流れがあるものなのだろう。
そうしたなか、昨日と今日続けて思いがけない郵便物が届く。ひとつは、先日朝日新聞のオーサービジッドで訪問した宮崎県の中学校からで、私の来訪を希望する熱烈な応募の色紙を書いてもらったクラス全員からの感想文と寄せ書きであった。
このクラスの担任のM先生は女性だが、よほどの困難にもへこたれそうにない、頼もしい先生で、クラスをまとめる力量も確かな先生だと思ったが、こんなに思いの籠った御礼を送って下さるとは思いもよらなかった。有り難い限りである。
あの折、生徒諸君に「皆さん、勉強は何のためにすると思う?今の時代、有名校に入るためでも、有名企業に入るためでもない、バカな大人に騙されないために、バカな大人と戦う武器として勉強して下さい」というような事を言ったように思うが、「こんな大人もいるのか」と思ってもらったのかもしれない。熱い感謝の言葉。「バカな大人に育てられたら子供もバカではないのか」と持論を展開したもの。一般の剣道の竹刀の持ち方の常識とは異なった最近の私の気づきに対する驚き等々…の感想文を読んでいて、今回この中学校に行ってよかったと心から思った。宮崎でのオーサービジッドは永く記憶に残る出張授業となりそうである。
それにしても、書かねばならない原稿に、是非書きたい手紙、整理、片づけ、本の企画の進行と…相変わらずこぼれ落ちそうな(現にいくつもこぼれている)用件の山には変わりない。
しかし、体調が昨年よりは明らかにいいのは、今年の5月から始まった離糖が今も続き、体重が大体59キロと、いままで20年以上も62キロと言っていた体重が3キロ落ちた状態を維持しているからだと思う。夏の暑い頃は、5月頃に比べ、甘い果物が美味く感じられたので多少は食べ、その流れで秋の果物も食べているが、量は今までの年よりずっと少ないし、甘い菓子類は基本的に全く食べていない。(ごく稀に、ほんの少し食べることもあるが)
別に厳密に主義で決めようとは思っていないが、無理なく続けられる限り、いまの状態を保っていきたいと思う。
以上1日分/掲載日 平成20年11月9日(日)
11月は、それほど予定が混んでいないと思っていたが、想定外のことが次々に起こる。なかでも思いがけず時間を取ってしまった出来事は携帯電話の水没事故である。そのために収録されていたデータが全て消えてしまい、一からデータの収集を始めなければならなくなった。まるで伝言ゲームのように身近な知人から知人へと連絡してもらい、数十件はデータが集まったが、まだかつての十分の一程度である。(お心当たりの方は御連絡頂きたい)
しかし、本当にめまぐるしくいろいろある。9日の仙台の講習会の折は、珍しく参加者がほぼ全員武術、格闘技関係者という最近は滅多にない状況で、しかも指導者クラスの高段者の方々が多かったため、介護技は全くやらず、スポーツへの応用も殆どせず、専ら武術系の技ばかりだったから、私としてもいろいろ気づくことが出来た。
なかでも柔道的状況下で仕掛けられた時の対応技は、先日京都の講習会にも来ていたI選手相手に工夫したものが更に進展した。捧げ持ち崩しも極小の円を描くように崩すことで新しい展開があった。これらは皆、太刀を持つ時、手を寄せた持ち方にしてから体が変わり始めた影響だと思う。
影響といえば、私が歩くとき、右足が左に比べ、まるで魚のヒレが動くような少し変わった動きをしていたそうだが、先日、そういう私の歩く時の癖がピタリとなくなったと、以前から私の事をよく知っている人から指摘され驚いた。刀を寄せて持つようになってから、私の体がずいぶん変わった事は、身体教育研究所の野口裕之先生にも驚かれた事なので、やはりただ事ではないらしい。
仙台の後は、宮城の山中で炭を焼いている佐藤光夫氏宅へ。翌日は、まさに錦繍という言葉がピッタリの東北の紅葉を見る。せめてもう一日と思ったが、諸用山積みのため一泊で帰宅。
ずっと気になっていた医学書院の鳥居氏からの依頼の『発達障害当事者研究』(綾屋紗月、熊谷晋一郎共著)の書評の続きを書く。この本は、私が今まで読んだどの本にもない読みにくさと、興味をそそられて手離せないという相反する二重性をもった極めて不思議な本である。本書により、人間が状況を認識し理解する事、また人が人を理解する事が、どれほど奇跡的なことか、ということが身に沁みた。医学書院からの了解が得られたら、いずれ私の書いた書評の全文を紹介したいと思うが、"人間"ということに興味のある方は、是非お読みになることを勧めたい。
13日はM君来館。数学、物理学についての話をしてもらい、京大のO先生からのメールの中の専門用語についても、いろいろ解説してもらう。解説を聞いていて、M君の聡明さとセンスの良さにはあらためて感服する。ついつい深夜まで話し込み、陽紀に頼んでM君を自宅まで車で送り、その車中でも話は尽きなかった。
14日は池袋での講座。そして講座の前にPHPの編集者の太田智一氏から名越康文・名越クリニック院長との初の共著『薄氷の踏み方』の見本本を受け取る。今まで私が出した本のなかで、最も凝った装丁。おまけに、いま人気絶頂のスザンヌ女史と植島啓司先生という異色の御二方に写真入りで推薦文を寄せて頂いているというサプライズがついた腰帯。これは書店に平積みになっても眼を惹くことだろう。
サプライズといえば、いま北海道から帰宅中だが、先月は松聲館で、そして今月初めの京都の講習会にも参加していたI選手が、柔道の大きな大会で優勝したとの知らせが入った。いままで何度も述べてきた事だが、私の技を体験して、その時は驚いても、その後「是非それを学びたい」と希望するスポーツ選手は大変少ない。(おそらく千人に一人以下)しかし、その極く稀に学びたいと希望して私のところに来た選手は驚くほど高い確率で成果を出している。
それにしても、今回のように、私が教えたとか指導したというよりも、単に私がI選手を相手にして、あれこれやってみせたという程度で「成果が出た」と言われても、私にはまるで実感がない。したがって、I選手を私に繋がれたM先生からお礼のメールを頂いても、私自身、何かひどく過大評価をされているようで居心地が悪く、気味が悪い。
身体教育研究所の野口裕之先生は、「整体とは何か」ということの答えのひとつに「その人の実力を超えた事が出来るようにする事ではなく、実力相応の素直な心身にすること」というような話をされていたような記憶があるので、私の場合は、そこから外れてきているのではないかと、いささか気がひける。しかし、私の人生の脚本は、そうした私の思惑に構わずドンドン展開していきそうだ。とにかく今は御縁のある方々と、しっかり向き合ってゆきたいと思う。
今回の随感録は、やる事が次から次へと止めどなく降ってくるなか、何日間にもわたって書き続けたため、何だかつぎはぎの文章になってしまった。この間、東北では仙台稽古会の世話人の森氏はじめ、いろいろな方々に、また佐藤家の皆さん、O先生、M君、PHPの太田氏、北海道では札幌でS氏、旭川ではF氏御夫妻などなど、本当に多くの方々にお世話になった。あらためて御礼を申し上げたい。
フランスがひどく恋しくなっている折、北海道の旭川から富良野にかけての日本離れしたヨーロッパ的な風景の美しさは格別の印象だった。案内して頂いたF氏御夫妻には重ねて感謝の意を表したい。
以上1日分/掲載日 平成20年11月18日(火)
元交通関係の部署で飲酒運転をなくす担当をしていた警視庁の警視が泥酔して交通事故を起こしたり、元厚生事務次官宅が続けて襲われたりと、今まで考えられなかったような事件が次々と起きてきて、いよいよ壊れゆく日本を感じている。
そういう現在の日本の状況にリンクしているのかどうか分らないが、以前は私とはどうにも相性がよくなった現代武道の柔道や剣道関係の人達が、このところ相次いで私のところに訪ねて来られる。先月は柔道のI選手、そして昨日は雑誌『剣道時代』に連載されている「卒爾ながら…」という対談で、神奈川県剣道連盟会長で東大の剣道部の師範もされている小林英雄八段範士が来館された。来館される前は、最近の私の刀の持ち方が、現代剣道とはまるで違うし、その他の術理についても現代剣道とは大きく異なるところがいくつもあるので、対談が成立するかどうかも危ぶまれたので、その事を念を入れて編集者のK氏にも伝えておいたのでが、「そうしたお気遣いはいりません」という事だったので対談をお受けしたのだが、「本当に大丈夫かなあ」と訪ねて来られた小林範士と御挨拶させて頂いても、しばらくはどうにもぎこちなかった。
というのも、何年か前、やはり剣道八段の方と雑誌で一応記事にする事が前提でお会いして、鍔競りの時の対応の仕方などを体験して頂き、その時は驚かれもしたのだが、その後、その時の対談が活字として世に出ることはなかったからである。
私としては、今回もその時のように「お蔵入りとなるのならなったで、まあいいか」という気持ちでお会いしたのだが、予想に反して小林先生は大変頭の柔らかい方で、現に竹刀を持って頂いて、私の両手を寄せた持ち方での竹刀の動きや重さを体験して頂いたのだが、非常に率直に評価をされ、関心を持っていただいたので、私の方が驚いてしまった。なにしろ、今まで柔道や剣道関係の方々は、来館の約束をされても直前に急用が入ったり、怪我をしたりということで、いわゆるドタキャンが大変多かったし、たまに実際に会って技を体験してもらっても、何か急によそよそしい態度になったり、まったく的外れな質問をされたり…という事が大多数だったからである。
なにしろ剣道界では、私のようなアヴァンギャルドな人間に会うこと自体"タブー"という雰囲気があったようである。それが、第12回の世界大会では男子の監督も務められたという方が、「いや、今日はお会いできて本当によかった」と礼を仰って下さり、しかも、そのことが剣道雑誌で公表されるというのだから、私としては驚き以外の何ものでもない。
小林先生をお見送りした後、フト桜井章一雀鬼会会長が「俺ぁ、麻雀打ちだぜ。その俺に何か教えてくれとか、聞かせてくれって、教育者っていうの、そういう人が来るんだから、世の中おかしいよなー」と、独特の桜井節で私や名越氏に話されていた、まさにその場面が頭の中に蘇ってきて、いいのか悪いのか分からないが、世の中変わってきたのかもしれないと思った。
12月は「長崎県学校剣道連盟」からの依頼で長崎市に行くが、私を招いたことで後々面倒が起こるのではないかと心配していたが、その心配が、今回小林先生に評価して頂いたことで、かなり緩和され、私の気も楽になった。
この長崎での学校剣道連盟主催の講習会の翌日は、佐世保で講習会を持ちますので、御関心のある方はどうぞ。
私の携帯が水没してデータがすべて消えてしまった事を、前回の随感録で触れたので、かなり多くの方々から御連絡があり、なかには懐かしい方から久しぶりに御連絡頂き、しばらく時間を忘れることもありました。しかし、まだまだ御連絡を頂いていない方々の方が多いのが現状です。お心当たりの方は、おついでの時に御連絡頂下さるようお願い致します。
以上1日分/掲載日 平成20年11月21日(金)
相変わらず様々なメディアから、様々な依頼が来る。そうしたなか、思いがけない事も起こるので、連絡をしなければならない方々にも連絡が滞りがち。しかも、携帯水没でデータが消えてしまっているので、私から連絡したくても連絡しようがない事もあり、何ともどうしようもないなか、今年も過ぎてしまいそうだ。
このような環境のなかでも、興味深い本があれば、通しては読めないにしてもチラチラとでも読んでしまう。今日はそうした興味深い本のなかの一冊を紹介してみたい。その本とは、11月17日付の随感録で触れた『発達障害当事者研究』(綾屋紗月、熊谷晋一郎共著 医学書院刊)である。この本の書評を医学書院の鳥居氏の依頼で書いたのだが、その書評が実際に載るのは『看護学雑誌』の2009年3月号という事で、まだかなり日数があり、その間この本の存在を紹介することが出来ないのも残念に思っていたところ、鳥居氏から「雑誌に掲載される前でも随感録で、どうぞ紹介して下さい」という事であったので、ここに私が書いた書評の全文を掲載することにした。
これを読まれて御関心を持たれた方は、どうぞ本書を御覧になって下さい。
私自身、今まで少なからぬ冊数の本を読んだと思うが、こんなにも読みにくい本と出会ったのは初めてである。しかも奇妙なことに、この上なく読みにくい本であるのに、同時にただならぬ興味が湧いてきて、この本は蔵書としてずっと手元に置いておこうと、すぐ心に決めた。
この本の読みにくさは、譬えるとすると、噂に聞く荒川修作氏設計のテーマパークで、身体の平衡維持に様々な錯覚を起こさせる仕掛けが施されている「養老天命反天地」のようなものだからかもしれない。とにかく何度かチャレンジしたが、私はこの本を始めから順を追ってはどうしても読めなかった。
それは、およそ常人と異なった感覚の持ち主である著者の綾屋紗月女史の感覚を少しでも理解するには、始めから順を追って読むという常識的行為からして、引っくり返してゆかなければならないような気がしたからかもしれない。
私は武術研究という仕事柄、人間の認識のあり方には少なからぬ興味を持っていて、人間がごく普通に様々な場所を認識できるのも、幼時から日本人なら日本語を自然と覚えるのと同じような無意識なうちの学習によって、その空間把握を行なっているのだと思っていたが、そうした事を意識を持った年令になっても試行錯誤している人がいることに本当に驚いた。
いや、意識を持っているからこそ、幼児よりも、その混乱が激しいのだろう。"事実は小説よりも奇なり"というが、感覚鈍麻と感覚過敏が一人の人間の中に同居しているという事の奇妙さには、読む者がまず混乱してしまう。例えば、綾屋女史は、空腹感や、暑さ、寒さといったものが、よく分からないらしい。
綾屋女史の記述によれば、空腹感は、胃の辺りが凹む、胸がわさわさして無性にイライラする、手足が冷たい等々といった事から、「これはお腹が空いたのかも知れない」と推測するらしい。寒さは、何だか今日は足が重い、体がやけに重くてほとんど動かない、どうにも無性にさみしい気持ちがする等といった身体感覚や、心理感覚が湧いてきて、「風邪を引いたのだろうか?」「筋肉痛だろうか?」などと分析をして、「ひょっとして寒くて私の体が冷えているのかも知れない」という結論に辿りつくらしい。
つまり、寒いから暖まりたい、という一般人ならすぐに起こる欲求にはなかなか繋がらないらしいのである。
ところが、嗅覚、味覚、触覚といったものは、常人より遥かに敏感で、僅かに残る洗剤の香料の匂いで、人をグループ分けしていたりするほど嗅覚に敏感なだけに、香水を直に嗅ごうものなら、「鼻から匂いがはがれない!」と三日間も苦しみ続けるというし、服は木綿でないと耐えられず、しかも濯ぎが足りなくて、洗剤の成分が残っている服に触れると痛いという。
また、暑いことや寒いことには鈍感なのに、冷房や暖房など外気温と温度差のある所に突然入ると、体が急激な温度変化に対応できず、パニックになったり、立ちくらみしたりするそうだ。日常起こる、こうした様々な体験を本として、一般読者にも、より伝わりやすい形で伝えるという事は、「どれほど多くの工夫が要ったことか」と、呆然とすると共に、著者の才能と根気に心から敬服せざるを得なかった。
何しろ、人はなかなか余人には分ってもらえない感覚や技を何とか多数の人達に伝えるためには、どうしても"譬え"を使わざるを得ないものである。それは、私も私の開発した技を伝える時、"譬え"を多用するから、譬え方の工夫は日頃からいろいろ考えている。
しかし、譬えは、その根底に「他人との共通認識がある」という前提で話すものであり、綾屋女史のように、まず他人との共通認識が、どの程度あるのかがよく分らない場合、この"譬え"そのものがどれほど有効かは闇夜に手探りするような困難さがあったと思われる。
たとえば綾屋女史が小学生の時、繁華街を歩いていて、突如まわりに多数ある看板がいきなり一斉に自分に向って来たように感じられ、「看板に襲われた」感じがして、耳をおさえ、目を瞑ってその場にしゃがみ込んだという経験は、話に聞くマジックマッシュルームなどによる幻覚症状にも近い感じがして大変興味深かったが、おそらく一般の人達がこの感覚を、実感をもって味わうことは不可能に違いない。
何しろ綾屋女史は、視力は1.2〜1.5と十分な視力があるのだが、視覚からの状況判断が苦手なせいか、いつの間にか聴覚優位な空間認識になっているらしく、いわゆる「エコロケーション」という反響音での空間把握を、自分の位置確認に、かなり使われているようだ。そのため、反響音が吸収される、屋外にある人気のないプールサイドを歩いていると、水によって音が吸収されるため、プール側が低く感じられ、そのせいで急斜面の崖に立っている時のように、体が水の方へ傾いていって、そのまま落ちそうになるという。
こういう状況など、常人には、とても味わう事が出来ないだろう。
ただ、それだけにその困難さを、それこそ筆の及ぶ限り工夫しぬいて伝えようとされている綾屋女史の真摯な姿には感動を覚える。
私はこの本を読んでいて、人間が他人を理解するという事が、どれほど困難であるかという事を、今まで読んだどの本よりも身に沁みた。と同時に、人間にとって才能とは何かという事についても深く考えさせられた。
綾屋女史からみれば、ごく一般的な人間が出来ることが超能力者のように思えるらしいが、ごく一般的な人間から見れば、綾屋女史は実に不思議な人に見え、また、その嗅覚や触覚などの敏感な検知能力には舌を巻いてしまうだろう。
本書により、あらためて「人間の能力とは何か」という問いが浮かび上がってくる。
以上1日分/掲載日 平成20年11月23日(日)
「2月は逃げる」とよく言うが、11月も1足す1で2になるせいか、今年の11月は本当に早く過ぎ、残すところ、あと2日。私もこの11月には、東北に行ったり、北海道に行ったりしたが、何だかずいぶん昔の事のような気がする。私の印象に、かなりハッキリと残っているのは、今週の、25日と26日に続けて行った横浜市消防訓練センターでの消防士の体育指導員という方々を対象とした講習会。
消防というのは危険な現場での命を張った仕事であるだけに、訓練も両腕だけでロープを登ったり、人を抱えて降りたりと、いろいろハードなようである。そして、こうした現場でもスポーツ界と同じく筋トレ主体の訓練で、腰痛を抱えながら勤務に就いている人も多いらしい。それだけに、「そこを何とかしたい」という要望が、そうした現場の人達からあり、私のところに依頼が来たようである。
私もこういう現場で体を張っている方々には、かねてから敬意を持っていたし、恐らく並ではない力の持ち主とも出会えるだろうと思って引き受けたのである。25日も26日も、まずは感触をみて頂こうと、「片手の斬り落とし」や「直入身」、座り技の「辰巳返し」(合気道の座り技呼吸法のように、座った取の左右の手を受が右左の手で抑えるのだが、この時、取は手を床に置き、受はその上に全体重をかけてのしかかる形で、この取の手を上げさせないように手首を抑えるもので、以前の、といっても半年ほど前では、私もおよそこのように相手十分の形ではやろうとは思わなかったと思う)などを体験してもらい、多少は驚いてもらってから、人の抱え上げや立たせ方、体の躱し方、受けのとり方等々、消防や救急に役に立ちそうな事、それから、膝を丈夫にする足裏の垂直離陸歩行などを実演しながら解説した。
実演で私の腕などを掴んでもらうと、およそ他ではまず体験したことのない分厚い丈夫な掌で驚いた。おそらく日頃、ロープ登り等で鍛えられているからだろう。それだけに力も半端ではない方も見受けられたが、技が出来なくて困ったという事はなかった。その時、あらためて思ったのは、今年の5月の末以来、刀の柄を両手を寄せて持つようにならなかったら、つまり、「あの気づき」がなかったら、体術もここまで余裕を持つ事はできなかっただろうという事である。それと同時に、それ以前から折に触れて私が述べている「追い越し禁止」の術理は、あらためてその重要なことが感じられた。
まあ、この他に私自身のことに関しては、名越康文氏との共著『薄氷の踏み方』が刊行された事が、今月では記憶に残ることだろう。この本に関しては、以前から私の本を熱心に読まれているM氏から7冊分くらいの読み応えがあったという長文の感想メールを頂いたから、響く方にはかなりの影響があるようである。
しかし最近は本離れが激しいせいか、社会的にそれなりの地位にある人が公式の場で発言する時、稚拙な日本語を使う場面が目立って、何だか本当にガックリ来る。まあ、首相が首相だから仕方がないのかもしれないが、昨日も「大変残念で惜しい人を失った」と言いたいのだろうと思う場面で、「慙愧に耐えません」と、本来は自分が恥かしいことをして大変反省しているという意味の、およそ場違いな表現を使っている年配の社長の記者会見を目にすると、悲惨な出来事に対する思いが別な意味の悲惨さも加わって、「ああ、日本もここまで酷くなってしまったか」と一層心が寒くなった。
以前にも書いたが、近頃は「最近の若者ときたら本当にものを知らない」という歴史のなかで代々言われてきた愚痴とは違った「最近の年寄りときたら本当にものを知らない」と言わざるを得ない事が度々あり、文化の継承がここに来て急速に途絶え始めていることを犇々と感じる。
何につけても安全と豊かさを強調し、見せかけでも安全で豊かであればいいといった社会全体の志向が、こういう時代をつくったのだろうが、本当に日本はこれからどうなってしまうのだろうか。
以上1日分/掲載日 平成20年11月28日(金)